2017年10月 最終特集(故人2名)後編 (前篇は下にあります)

 8月末日に掲載した前篇の今野雄二氏の特集に、その後、氏とキネマ旬報それぞれの1970年から1981年の映画作品ベスト・テンを並べた参考資料と写真を追加しました。

 

  

 人 加藤薫さん(15期=1967年入学)

         -中南米と日本を美術でつなぐ人-

 

 

加藤薫 (19492014)  美術研究者、美術評論家。専門はラテンアメリカ美術。

略歴:国際基督教大学人文学科卒業。Bゼミ・スクール終了。メキシコ、ラス・アメリカス大学大学院芸術学部修了。メキシコ国立美術研究所研究員、国連大学職員、国際基督教大、

東京外大、上智大、信州大等の講師を経て、1988年より神奈川大学国際経営研究所主任研究員・経営学部助教授。1992年より教授。

 主な著書:

 『メキシコ美術紀行』新潮社1984年

   『ラテンアメリカ美術史』現代企画室 1987年

 『メキシコ壁画運動 リベラ、オロスコ、シケイロス』 平凡社 1988

   (現代図書より2003年再刊)

 『ニューメキシコ 第四世界の多元文化』新評論 1998年 

   『キューバ★現代美術の流れ』スカイドア 2002

 21世紀のアメリカ美術チカノ・アート』 明石書店 2002

 『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』岩波書店 2011年

 『骸骨の聖母 サンタ・ムエルテ』新評論 2012年   

   『イコンとしてのチェ・ゲバラ』 新評論 2014年 など

 

型破りな求道の後に

 

氏に対するいくつかの弔辞は、加藤薫氏の業績、人柄、対象へのアプローチの仕方などを、他者ならではの視点からくっきりと鮮やかに示している。ここでもいくつかの指摘を引用させて頂くが、自らの人生を、その時代状況も彷彿させるように描いている自己紹介の文章(教鞭を取った神奈川大学の広報紙「神大スタイル」の「教授 人となり」欄)を読むと、加藤氏の人生がどのようなものに突き動かされていったのか一番よくわかるように思われる

 ICU入学の1967年という年は学生運動盛んな時期で授業は本館がバリケード封鎖されてしばらくそこで行われず、落ち着いて学べる状況ではなかったようだ。氏の言葉では、「新宿に出かけてはテント芝居を覗き、風月堂にたむろし夜はゴールデン街通いと、あらゆる刺激を求めて漂流した」「恩師と呼べるものは自由な都会の解放区で出会った大人たちだった」とある。

「十九の春、生きているという実感を求めて自衛隊最強といわれた習志野空挺部隊で訓練を受け」母親には聖書の世界を見るための留学と告げ、アラブ諸国と交戦中のイスラエルに旅立った行動力に驚かされる。しかし、「一年間の滞在で思い知ったのは、借り物の知識は一応あるけど、『生きること』と『考えること』、『行動』が遊離している愚かな自分」と述懐している。

 

未開の領域を耕す

 

ICUの学部卒業に6年かかったそうだが、その期間は「逸脱の美学という言葉にのめりこみ」「社会でもっとも役に立ちそうにないアート分野、そのアートの中でさらにまた周辺部へ」という志向が徐々に固まった時期だったのだろう。「中南米美術研究」を目的として、メキシコの大学院に進学の道を選ぶ。その後の氏の仕事については著書が多くを語っているが、以下お借りした弔辞からもいくつか引用したい。

 

その中に加藤薫氏を形作った特色についての言及がある。「国際基督教大学での語学と国際感覚、Bゼミ・スクールでの現代美術」(引用者註:Bゼミとは、1967年横浜に設立された現代美術の専門学校) そしてメキシコの大学でのラテンアメリカ美術の研修」。 これは中南米の北半分を対象にした加藤氏とは南半分の研究者として「よき相棒」だったという金澤毅氏の言である。

 

加藤氏が現代美術の作品創作をしていたことや自衛隊の訓練を受けたこと等も、中南米探索や実践的活動の中で活かされたように思われる。

 

研究方法についても興味深い指摘がある。ラテンアメリカの文化状況の見取り図づくり、加藤氏が行った「マッピング」は現地を自分の足で歩き、多くを見ることから始まったという。そのマッピングの成果は『メキシコ美術紀行』から『ラテンアメリカ美術史』、『キューバ現代美術』などの著作に見られるそうだ。そしてその中から絞り込みを行い、それは『メキシコ壁画運動』、『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』等に結実していると正木基氏は述べている。

 

なお、『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』(岩波書店)という870頁に及ぶ大著。この本はメキシコの画家ディエゴ・リベラの1886年から1957年までの生涯、彼の壁画や壁画運動が世界の美術界に与えた影響が世界史的文脈の中で語られ、妻の画家フリーダ・カーロ、彫刻家イサム・ノグチなども登場する人物史、文化史的著作でもある。「この本は公立図書館で1世紀は生きているはず」との書評がある一方、その美しい造りも第46回造本装丁コンクールで日本書籍出版協会理事長賞を受賞している。

編集担当者の高村幸治氏は加藤氏と同期の15期で第一男子寮でも一緒だったそうで翻訳書『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』(神奈川大学出版会 2014年)の共訳者野田典子氏もICU同期生と伺った。

『イコンとしてのチェ・ゲバラ』、『21世紀のアメリカ美術 チカ―ノ・アート』は共に、アートという切り口からより深みへ誘う加藤氏ならではの作である。

 

きさくでダンディな日本人

 

加藤氏の人柄について、ABRF Inc.(荒川修作+マドリン・ギンズ東京事務所)代表で、ラテンアメリカンアートのギャラリープロモ・アルテの元スタッフだった本間桃世氏の言葉を引用したい。

紹介されたプロモ・アルテギャラリーで働き始めて間もなく、ギャラリーを訪れた加藤氏に挨拶をした時のこと。氏は「ふ~ん、コスタリカにいたの。コスタリカの美術はあんまり知らないなあ… 今度ぜひ教えてね」と、ニコニコと気さくに話しかけたそうである。(「飾り気のない性格と誰とでも仲良くなれる気質」と前述の金澤氏も書いている)

 

 本間氏によれば、「(キューバでは)同席の女性がいれば必ずその美しさを見出して(本間氏の謙遜の言葉がこの部分にあり)すかさず賛辞を送り、女性なら誰でも先生とお酒を飲むのが楽しみになってしまうようなチャーミングさ」を発散していたようである。そうした声掛けは日本の大学では気を付けなければいけないという話で「ぼくなんてうっかりするとセクハラ、なんて言われちゃうかもねえ」と、つぶやいて皆を笑わせたというエピソードは微笑ましい。

 

大学を社会に開く教育者

 

神奈川大学の石積勝学長は、「経営学部の新機軸のほとんどは薫さんの発想で生まれ、その実行の中心にいた」と語っている。「一芸入試、AO入試、VAC・・・バリュー・アッデド・キャンパス構想、国際プログラム、国際寮構想、泊りがけのFOC・・・フレッシュマン・オリエンテーション・キャンプ。大磯プリンスでの運動会。阪神大震災時のボランティア」等々。1967年次にICU(国際基督教大学)に入学し、得たもの、「紛争」最中の大学で失ったものなどへの思いも、理想的な大学への構想に反映されているのではないだろうか。

 

神奈川大学での教え子だった今野克義氏は、公私にわたって氏から受けた貴重な励ましについて語っているが、驚くべきは、1995(平成7)にあった阪神・淡路大震災時の加藤氏と神奈川大学当局、学生の活躍の姿である。学長をはじめ先生方が率先してボランティア派遣態勢を作る。「神戸にボランティアに行くぞ」というビラを加藤氏の提案で作成し、地震発生の翌日には70名以上の学生が志願をした。

 

先遣隊となった加藤氏と今野氏たちがなんとか須磨区役所前に辿り着くと、20名の学生用テント資材を積んだ大学のワゴン車も合流した。「先生は、公園のフェンスにロープを張り、ブルーシートを巨大なテントになるようにガムテープで貼り合わせ、拾い集めてきた大量のビールケースをひっくり返して高床にして、あっという間に『神奈川大学テント村』を完成させた」そうだ。この神戸での経験が活かされ、2011年の東日本大震災でも神奈川大学のボランティアはおおいに活躍をしたようである。

 

研究にとどまらない氏の美術交流活動


  氏の活動の中には、中南米のアーティストを日本に招いての活動紹介や、テレビ番組や展覧会による中南米美術や世界遺産紹介の企画なども含まれている。(例えば2009年に世田谷美術館で開かれた「メキシコ20世紀絵画展」等) 闘病中だった氏の最後の著作『イコンとしてのチェ・ゲバラ』(新評論 2014年)のエピローグ後半にはその難病との闘いの日々のことが記され、「願わくは、2017年のゲバラ没後50周年イベントに立ち会えますように」との言葉で結ばれている。

 

 本年(2017年)8月には東京でゲバラ自身が撮った写真展も開催されたが、9月に広島で開催されたのは「広島・キューバ展~チェ・ゲバラの視線を通して」。 その展示に千恵子夫人が薫氏のコレクションであるゲバラのポスターを提供したことを伺い、氏の願いに寄り添われていることを思った。

 

加藤薫氏という母校の先輩が、ラテンアメリカ美術の研究者であることを知り、特にメキシコの壁画美術に詳しいと聞いて私が思い出したのは、20代後半で感銘を受けた本―北川民次著の岩波新書『絵を描くこどもたち』(岩波書店 1952年)である。そこで語られる、著者が長く教育を行った美術学校のことの他、北川氏とリベラの関係についても、加藤氏の『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』に詳述されていた。いつか『絵を描くこどもたち』で受けた感動をお話しし、メキシコの壁画運動などについて伺いたいと思っても加藤薫氏はもうこの世にはいない。

 

加藤薫氏の遺した書を読み、教えを受け継いだ人々の中から中南米と日本、あるいはまた別の世界の間でも、文化の架け橋となる人がこれからも出続けることを祈りたい。 (文:村田広平) 

 

   上の写真は2008年ご自身の研究室にて撮影されたもの

 

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 2014年暮れに「ICUのアートなOB紹介」の特集のインタビューお願いをICU同窓会経由で加藤氏にお送りしました。そして奥様から、氏がその年にお亡くなりになっていたことをお知らせ頂き、愕然としました。去年は何もできず、今回の加藤薫氏と今野雄二氏紹介は、たまたまある先輩を知り、その先輩が双方のご遺族とお知り合いであることがあとからわかり、お二人を紹介したいという気持ちが強く後押しされて、実現しました。この「ICUのアートなOB紹介」はこの前・後編の特集を以て、いよいよ本当に更新を停止します。

設立時の仲間である、原田なおみさん、松平信さん、ご協力くださった全ての方、このサイトに目を止めて下さった皆様へこのサイト上からあらためて御礼申し上げます

2017.10.6 村田記)

2017年8月 最終特集(故人2名)前篇

今野雄二氏紹介文章に参考資料、故人の写真を追加掲載させて頂きました。

 

  今野雄二さん (11期=1963年入学
-評論から小説までのジャンル越境者-

  

 

今野雄二(1943~2010)

略歴:

国際基督教大学語学科卒業、平凡出版(現マガジンハウス)編集部を経て評論家として独立。「イレブンPM」などのテレビ番組出演、「平凡パンチ」「an・an」等の雑誌等多くの媒体で主に映画や音楽評論で活躍し、創作活動としては作詞や小説執筆も行った。

著書(小説を中心として):

『恋する男たち』 八曜社 1975年

『きれいな病気』  マガジンハウス 1989

『天国の車庫』 マガジンハウス 1991

以下没後出版

『無限の歓喜 今野雄二音楽評論集』 ミュージックマガジン 2011

『今野雄二 映画評論集成』 2014年 洋泉社 など

ー映画のノベライゼーション・解説書、訳書、編集書、歌詞提供の歌等は除く

 

(上の写真は洋泉社 2014年 刊『今野雄二映画評論集成』表紙)

 

 

活躍した領域の広さ

 

 1968年「キネマ旬報」の熱心な読者は、今野雄二氏が24歳の時にアメリカンニューシネマと呼ばれる映画について書いた文章が皆異色で鋭い視点を持つことに気がついたかもしれない。さらに、主に60年代から80年代にかけての日本テレビによる深夜バラエティ番組『イレブンPM』に映画の紹介者として出演していた1980年を挟む時期の氏を知っている人もいるだろう。1984年にはスポーツ・芸能部門でのベストドレッサー賞を受賞もしていてスター性がある人だった。また、彼の小説にはファッションに関する美学をうかがわせる記述も多い。

 私は80年代後半になってから、多彩な評論活動をするICU卒の先輩としての彼を雑誌記事等で知った。一般的に、彼がフリーランスでの様々な仕事をしつつ長く勤め人であったことは逆に余り知られていないかもしれない。

伝説的な『平凡パンチ』や今も刺激的な特集を出し続けている『an・an』などの雑誌編集者を平凡社(現マガジンハウス)社員として務めていたのだ。

当時の流行の音楽に詳しい人は、彼の書くミッシェル・ポルナレフ、ロキシー・ミュージック、デビッド・ボウイ等のライナーノートにも注目しただろう。そうした分野に疎かった私は、氏が晩年に書かれた小説群を今回読んで、最後に小説を自らのフィールドと定めて精力をつぎ込み逝ってしまった方という印象さえ持ったが、とても一分野に安住できる人ではなかった。

 

 相反するものの微妙なバランスへの感性

 

 それは彼の仕事に特徴的なことだと思うのだが、映像、音楽、言葉などそれぞれの垣根の中で味わうのではなく、一体としてそれらから感じとろうという姿勢がある。例えば映画『イージーライダー』(1970)の映像と共に流れたロックの曲 "Born to Be Wild" の使われ方を「一見カッコ良さそうなイメージのアクセサリー」として評価せず、一方『M★A★S★H』(1970)については、冒頭のヘリコプターで負傷兵が運ばれる中、甘美なメロディでシニカルな歌詞が流れる取り合わせを絶賛している。「相反する二つの世界が微妙に保っているこのようなバランスが味わわせてくれる、スリルに似た楽しさ」と彼以外の誰が書くことができただろう。彼はまた、映画会社がいかに高く売り込むものでも、自らの感性に従い評価できないものについては駄作としてけなすことも厭わなかったようだ。

 

 氏が注目した映画にうかがえる孤高の哀しみ

 

 彼の評論を読んでから観たいくつかの映画、ハンフリー・ボガート主演の『東京ジョー』(1949)や、ドナルド・サザーランドが主役と言ってもよい『M★A★S★H』(1970)、ジャック・ニコルソン主演の『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970)等はいずれも、主人公がその才能やエネルギーを持て余し孤独であるような姿が印象的だった。そんなに古い映画ばかりではない。彼がネット上の雑誌『e-days』に寄稿した映画評論群のひとつは、彼が世を去った前年公開の『月に囚われた男』(原題 ”Moon” 2009年)という映画についてだった。 

 

 その映画はカズオ・イシグロも『私を離さないで』(原題 ”Never Let Me Go")で取り上げたようなテーマが物語の進行と共に明らかになってくるサスペンスタッチのSF映画である。しかもその監督は、デビッド・ボウイの息子とのこと。今野雄二氏自身が日本に紹介したと言っても過言ではないデビッド・ボウイ、その1973年の初来日時のパーティで2歳だった彼の息子に会ったことを紹介して終わるのも、いかにも心憎い。今野氏は66歳で逝ってしまい、今は忘れられかけているが、彼の功績を再発見する人、彼に続く人は絶えることはないだろう。

 

時代・環境・人間関係

 今回、氏のことを書くにあたって読んだ『今野雄二映画評論集成』で、映画評論家の白井佳夫氏が、編集長だった『キネマ旬報』に投稿してきた今野氏の評論の斬新さに注目して評論の依頼をするようになったと知って興味深く思った。

 

 それは1960年代末のことだったが、このエピソードは、ちょうど、1950年代に鶴見俊輔が、『映画評論』に投稿された佐藤忠男の映画評論に注目して雑誌『思想の科学』でその才能を伸ばす手助けをしたという話を思い出させる。

 

 

(上の写真は 径書房 2014年刊 『恋の記憶』 表紙)

 

 インターネット以前の時代、海外の雑誌は貴重な文化情報源で、今野氏がそれを濫読したことも、映画評論集成巻末で証言されている。極めてユニークに見える才能でも開花するためには、時代、環境、人間関係等に負う部分も大きく、異分野で自在に活動したような今野雄二氏もその例外ではなかったのだろう。(文:村田広平)

参考資料 

ベスト・テン映画からみる今野雄二氏とキネマ旬報(1979年~1981年)

 

 この項目はキネマ旬報社の『戦後キネマ旬報ベスト・テン全史1946-2002』から引用しました。この分厚い本には、今野氏選出のベスト・テン映画も1969年から1998年まで載っています。以下はそこから19791981年の今野氏とキネマ旬報選出のベスト・テン映画を抜き出したものです。(1981年は今野氏がキネマ旬報誌上で、外国映画だけでなく日本映画のベスト・テンも選出している唯一の年でした)

 

(以下、スマホ画面で改行位置がずれるため、色分けで見やすくしました)

 

1979年外国映画で今野氏のベスト・テン()とキネマ旬報ベスト・テン()

1位 チャイナシンドローム    1位 旅芸人の記録 

2位 ノーマ・レイ        2位 木靴の樹 

3位 天国から来たチャンピオン  3位 ディアハンター

4位 ハロウィン         4位 イノセント 

5位 戦場            5位 インテリア 

6位 ウェディング        6位 女の叫び 

7位 エイリアン         7位 奇跡 

8位 ディアハンター       8位 ビッグウエンズデー 

9位 プロビデンス        9位 チャイナ・シンドローム

10位 インテリア        10位 プロビデンス

 

1980年外国映画で今野氏のベスト・テン()とキネマ旬報ベスト・テン()

1位 ブロンコ・ビリー       1位 クレイマー、クレイマー  

2位 ノース・ダラス40        2位 ルードウィヒ 神々の黄昏

3位 クレイマー、クレイマー    3位 地獄の黙示録

4位 ヤング・ゼネレーション    4位 大理石の男 

5位 トム・ホーン         5位 マンハッタン 

6位 フェーム           6位 マリア・ブラウンの結婚 

7位 スタートレック        7位 テス

8位 地獄の黙示録         8位 オール・ザット・ジャズ 

9位 マンハッタン         9位 カサノバ 

10位 シャイニング        10位 フェーム 

 

 

1981年外国映画で今野氏のベスト・テン()とキネマ旬報ベスト・テン()

1位  ウルフェン           1位 ブリキの太鼓

2位  エクスカリバー         2位 秋のソナタ

3位  夕暮れにベルが鳴る       3位 普通の人々

4位  ストーカー           4位 約束の土地

5位  ブリキの太鼓          5位 グロリア

6位  約束の土地           6位 レイジング・ブル

7位  アルタードステーツ 未知への挑戦           7位 チャンス

8位  スターダスト・メモリー     8位 ある結婚の風景

9位  グロリア            9位 ブルースブラザーズ

10位  殺しのドレス         10位 エレファント・マン

 

1981年日本映画で今野氏のベスト・テン()とキネマ旬報ベスト・テン()

1位 のようなもの          1位 泥の河

2位 近頃なぜかチャールストン      2位 遠雷

3位 ヨコハマBJブルース         3位 陽炎座

4位 ガキ帝国 悪たれ戦争                4位 駅 STATION

5位 (4位と重複。編集ミス?           5位 嗚呼!おんなたち 猥歌

6位 泥の河              6位 幸福

7位 遠雷               7位 ガキ帝国 悪たれ戦争

8位 陽炎座              8位 北斎漫画

9位 北斎漫画             9位 ええじゃないか

10位 風の歌を聴け         10位 近頃なぜかチャールストン

 

左の写真は『恋の季節』(径書房 2014年)裏表紙より

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2012年ICU祭に美術部OB会の企画でアート関係のOBの活動をパネル展示しました。その時今野氏のことを紹介したいと思いつつ、長い時間が経ってしまい、サイト閉鎖(凍結)直前にやっと実現できました。ご遺族、同窓生のご協力に深く感謝します。

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