このコーナー(1年目も同じ)では不定期でICUのアートなOB個人団体などを取り上げご紹介してきました。最下段以外古い順に下から並んでいます。
2015年6月の特集(特集第16回)
人 朽木ゆり子さん (18期 ID74)
-ジャーナリスト魂で美術探偵- 後篇 (前篇はその下)
The Journal of the Japanese Art Society of America (2013年号)
に朽木さんが書かれた山中商会に関する記事
後編の今回は、朽木さんが美術ジャーナリストとなられる以前のことからお聞きします。まず朽木さんにとっての大学教育はどんなものだったのでしょう?
朽木「ICU教育と自分の選び取った職業の関連性など、最近私も考えるようになりました。まず、職業は継続しないと意味がない。どんなに小さいことでもそれを続けていかないと、キャリアにつながらないですね。女性は、人生の中で、出産や子育てのように、仕事を中断しなければいけないようなことがありますが、そこで頑張って細々とでも続けていけば必ず次につながっていくと思うんです。大学教育が何の役に立つのかという問題ですが、今振り返ってみると、私は大学で受けた教育よりも、やはり社会に出てから仕事の現場で得たもののほうが大きいと思っています。まあ、それは年齢的なものもあって、仕事を長くやってきたからそう思うのかもしれません。もっとも、私は大学院時代も含め大学に長くいて、30歳になってからいきなり社会に出たので、新人教育のようなものはまったく受けていません。あくまでも、現場の実践でたたきあげられた感じですね。
ただ、その前提として、考える力、書く力、理解力や応用力、そしてそもそもあきらめないでやっていく努力とか、そういうものはやっぱり大学時代に培われるものだと、絶対に思います。その意味で、大学では専門教育より、そういう力や能力を身につける場だと思います。周囲の人に聞いても、大学の専門を職業にしている人はあまり多くないですし。ですから、リベラルアーツ教育というのは多いに役に立つんじゃないかと思うんですね。私はICUでたくさんタームペーパーを書かされたことがよかったと思っています。」
編集部(村田)「ICUに入学されたのはちょうど大学紛争の時ですね。」
朽木「そう。1969年でしたが、入ったばかりの5月にキャンパスは封鎖され10月下旬に機動隊導入によって封鎖が解かれるまで、授業はありませんでした。(封鎖:学生が、学校側に対する要求が受け入れられるように、校舎の出入り口を机などで「バリケード封鎖」した学園紛争の手段)
私はいわゆるノンポリでしたが、近くに下宿していたのでキャンパスで起こっていることはしっかりと観察していたと思います。(ノンポリ:non-politicalから生まれた言葉。政治運動に関心がない、あるいは過激な学生運動に直接参加しないことを指し、1960年代末から70年代初めによく使われた)
その結果、大学に対して幻滅を感じ、授業が始まっても勉強する気になれませんでした。特に11月から3月までの5ヶ月間で1年分の授業をやってしまうという大学の方針はとても受け入れる気になれず、結局1年留年して、翌年4月から新入生と一緒に授業を受けることにしました。私の周囲にはその選択を取った1年生が多かったと記憶しています。
ただ授業が始まってからも幻滅感は続き、身を入れて勉強はしませんでした。ですから、フレマン(Freshman English)の成績は惨憺たるものでした。」
猛勉強へとシフトチェンジしたきっかけ
「それが変わったのは、3年生の夏休み以後ですね。私はクラブ活動で少林寺拳法をやっていましたが、部のアドバイザーであるアメリカ人の先生ご夫妻がアメリカに帰任する際に、少林寺拳法部員何人かでアメリカ合宿に行ったんです。2週間くらいでした。バークレーから東海岸に行って、ボストンで先生たちのお家に泊めてもらって。半分遊びに行ったようなものでしたけど、その時に色んな人と交流するんですが、英語がしゃべれない(笑)。日本のことを質問されてもちゃんと答えられない、というのがものすごくショックで、帰ってきてから猛烈に勉強するようになったという転換点があるんです。」
編集部(村田)「朽木さんは、やがてニューヨークのコロンビア大学にも留学されますが、ICUでも専攻は外交史だったんですね。」
朽木「はい。そうです。私は緒方貞子さんの弟子なんです。ICUでは緒方先生のクラスを取って、そのまま修士課程に進学し、緒方先生の助手をしていました。私が修士を終えたときに、それまで修士課程だけだった行政大学院に博士課程後期ができたので、試験を受けて進学しました。それと前後して緒方先生が国連公使になられてアメリカへ行かれたので、私も奨学金をもらってコロンビアの大学院に行きました。」
遠藤「どうしてコロンビア大学だったのですか?」
朽木「国際政治学専攻でしたから、日本の政治に強い先生がいる大学を選んだんですが、入江昭先生がいらしたシカゴ大学、それからカリフォルニアのバークレー校、ジョージタウン大学と、コロンビアが候補でした。 やっぱりニューヨークに対する好奇心があって、コロンビア大学にしました。ちょうどこの頃は、学者になるのか、他の仕事につくのか自分でも迷っていた時期でした。ICUには結局8年もいましたから、ともかく他の大学院へ行ってそれから考えようという感じだったんです。コロンビアにいる間に、やっぱり学者には向いてないと踏ん切りがついた。本当はそのままニューヨークで就職したかったのですが、ビザ上の制約があって日本へ帰ってこなければならなかったのです。で、東京に帰ってきてフリーランスで仕事を始めました、それで今の私があるわけです。」
日本版『エクスクァイア』で社員となり、副編集長も務められますが、その後お子様の子育てに時間を割くためにまた契約社員になられます。校正の技術などを夜間のクラスに通って習得されたり、アメリカに行かれる前は、ご自分で編集の会社を立ち上げたりもなさったそうです。
初期の翻訳のお仕事について
編集部(村田)「留学中に日本の雑誌の取材や通訳の仕事をされ、帰国後にフリーで雑誌の仕事を始められ、翻訳の仕事もその頃からなさっていますね。」
朽木「『エイジレス人間の時代―不老社会を築くパイオニアたち―』(ABC出版 1985年―原題 “THE GOOD YEARS: Your Life in the 21 Century”1983)は、私にとって仕事の難しさを教えてくれた本です。これは私が翻訳企画を出してOKしてもらった本ですが、とっても苦労しました。内容的に難しい本でしたし、それまでは大学院のタームペーパーのレベルの文章でしたから、文章が堅くて使い物にならないと言われました。編集者に「あなたは英語はわかるかもしれないけど、日本語が書けない」とののしられました。(笑)」
編集部(松平)「朽木さんが昔そんなことを言われていたとは…」
朽木「でも、ここで引き下がったら私の将来はないと思って、何度も書き直しましたよ。最終的には、ベテランの翻訳者を共訳者という形で編集者が引っ張ってきて、この人が最初から最後まで私の文章を点検するという形になったんです。いわば、保険ですね。実際には、本の頭のほうは文章を直されましたが、それ以外はあまり手をつけられなかった。でも、色んな意味で大変勉強になりました。この本を終えたから次に行けたという、そういう感じの本ですね。」
『エイジレス人間の時代ー不老社会を築くパイオニアたち』表紙
編集部(原田)「共訳という形にはなっていますが、朽木さんがあとがきも書かれていますね」
朽木「ずっと後になって、自分も編集者として働いてみて、この本でそういう方法論を取る必要があったことが理解できるようになりました。翻訳が正しいのは当たり前なんですが、文章として読みやすいか、読ませる文章であるかどうかという問題なんです。私がエクスクァイアの編集者になって、大勢の翻訳家や作家の方々から原稿を頂戴する立場になったときに、身に染みてよくわかりました。ああそうか、こういうのを読ませる文章と言って、こういうのを読みにくいと言うのだな、と(笑)。」
遠藤「どうして「エイジレス人間の時代」を選ばれたんですか?」
朽木「アメリカから帰ってきてすぐに、当時日経新聞の記者をしていらしたICUの先輩から、面白いから読んでごらんよと言われて読んだら、面白かった。日本にも高齢化社会はやってくるから、こういう本が必要になってくるから翻訳しましょう、と出版社に提案をしたら採用された。私としては初めての単独での書籍翻訳の仕事で、内容的にも手応え十分だった。でもすっごく時間がかかりましたね」
朽木さんは、学者への道から離れても国際政治や社会問題への興味を失わず、翻訳や編集の仕事をされていました。それが『盗まれたフェルメール』に始まる、美術に関するノンフィクションという分野でのご活躍に結実していったようです。
大ヒットした『フェルメール全点踏破の旅』などのフェルメールや、ゴッホに関する朽木さんの著書(『ゴッホのひまわり全点謎解きの旅』)では、例えば、絵がその後どんな変遷をたどったか、どんなところに保管されているか、どんな影響を与えたかがわかるだけではありません。例えば、フェルメールの話からはダリによるあるフェルメール作品の模写2点とその説明、ゴッホのひまわりの絵では、作家の武者小路実篤が構想し実現はしなかったが、日本にあったひまわりの絵を展示しようとしていた「白樺美術館」の話まで、広がりと深みがあります。
また、2014年10月に出た『邸宅美術館の誘惑』では、それらのコレクションとそのコレクターの人生、その邸宅美術館の建築の素晴らしさなどが縦横に語られ、美しい写真と共に紹介されています。
今回「ICUのアートなOB紹介」では、多くの著書の中から、特に「アートなOB紹介」の編集部が今回お勧めする本を一番最後に、朽木さんへの感謝を込めつつご紹介し、今回の特集をしめくくります。朽木さん、お忙しい中、本当にありがとうございました。
なお、朽木さんはある雑誌の連載読者以外にはお名前がわからないような形でブログを書いていらっしゃいますが、今回は特別のご厚意により、主に美術に関する話題のそのブログをご紹介させて頂きます。http://nykanwa.blogspot.jp/
また、ICU同窓会のウェブサイトに載っている「今を輝く同窓生たち」にも朽木さんのインタビューが載っています。お勧めです!http://www.icualumni.com/interview/guest037.html
お勧めの3冊
『盗まれたフェルメール』 : フェルメールの作品自体というよりも、その作品ができてからどういう経緯をたどり、なんのためにそれが盗まれたか、どのような結果となったかということが緻密に描かれ、読むうちに、事件を取り巻く社会の状況、現代史が知れるノンフィクション作品。これ以後朽木さんがガイドブック的なものも含め何冊ものフェルメール関係の本や美術関係のノンフィクションを書かれ始めた起点として記念碑的著作。未読の方にはご一読をお勧めします。
『パルテノン・スキャンダル』 : 日本ではあまり売れなかったと伺ったが、むしろ世界的に読まれる潜在力があるのではないかと思われる本。18世紀の末から19世紀の初めの国際情勢を背景に、エルギンというイギリスの大使がアテネの神殿からギリシャ彫刻をイギリスに持ってきた事情が、まるでその時代に目撃しているように描かれている。現代とは違う当時の考えや風潮、そして現在大英博物館に収蔵されているパルテノン神殿の彫刻のギリシャへの返還運動についても詳述。絶版になっているそうだが、朽木さんのお仕事を知るためには不可欠の著作。図書館から借りるか、古書店から入手しても読まれるべき本。(すでに絶版ですが、アマゾンなどで中古本が出回っています)
『東洋の至宝を世界に売った美術商 ハウス・オブ・ヤマナカ』
: 日本及び東洋美術の美術商、山中商会は、ほぼ100年も前から戦前までに発展し、アメリカに3店舗、ロンドンにも支店を持ち隆盛を極めていたが、第二次大戦勃発によって海外資産は敵国資産として接収され、その盛んな活動が戦後ほとんど知られることがなくなってしまっていた。朽木さんの地を這うような調査の結果、その実態が明らかになってこの本にまとまった。売り手と買い手の交渉や、本社とアメリカの支店の間のほとんど事務的なやり取りから、背後の戦争が浮かび上がってくる。戦後70年目が過ぎようとする今、ぜひ多くの人に読んで欲しい朽木さん渾身の作。
4月の特集(特集第15回)
人 朽木ゆり子さん (18期 ID74)
-ジャーナリスト魂で美術探偵- 前篇
朽木ゆり子氏(撮影 Takashi Ehara) 朽木さんの著書の中からの3冊
今回の特集は美術分野での著作で有名なノンフィクション作家の朽木ゆり子さん。現在ニューヨーク在住の朽木さんがちょうど日本に一時帰国される機会にインタビューをさせて頂きました。
お話の聞き手は「ICUのアートなOB紹介」メンバーの3名(25期 =ID81 原田、同じく25期=ID81 松平、24期=ID80 村田。以下編集部として括弧内に名前)と、美術・文化財 専攻の現役ICU学生の遠藤さん(60期=ID16)
今年1月29日、南青山 CAFE CREW 貸会議室にて。
まずは、現在の、美術分野でのジャーナリスティックな著作の第一弾である『盗まれたフェルメール』(2000年3月刊)誕生についてのお話から
『盗まれたフェルメール』誕生のいきさつ
朽木 「仕事というのは積み重ねなので、あるひとつの仕事がきっかけとなって次の仕事につながっていくんですね。ご縁があって1987年の4月に創刊された『エクスクァイア』日本版の編集部で12月から働くようになって、1994年にニューヨークに移りました。最初はアメリカでも『エクスクァイア(日本版)』や、他の日本の雑誌の記事を書いていましたが、90年代というのは、日本が10年間ほとんど経済成長がなかったという時代でした。(註1)」
編集部(村田)「失われた10年と言われますね。」
朽木「ええ。出版界では雑誌に広告が入らなくなり、同時に売れ行きが落ち、ページ数が少なくなって、記事もどんどん短くなり、書き手としては面白くなくなってきた。ライターの成長過程でいえば、雑誌記事から本の執筆に移行するというステップがありますが、私も本を書いてみようかな、と思いました。でも、本、特にノンフィクションは、題材との出会いが非常に重要なので、それを探すために1年位新聞を読んだり、本を読んだりしました。自分にとって面白く、同時に日本の読者にも面白い題材というのはどういうものだろうかと考えながら。
私の場合は、英語圏に住んでいますが、日本語で書くので、基本的には読者は日本に住んでいる方たちであるわけですね。その一方、資料や取材対象の大部分が日本に存在していると、私は日本に住んでいないので困るわけです。当時はまだ子供も小さかったので、あまり家を明けられなかったし。なので、反対に日本に住んでないことがプラスになるような、英語の資料が読めるということがアドヴァンテージになるような題材を探した。この姿勢はいまも同じです。
たまたま1990年代後半には、興味深い絵画盗難事件があったり、第二次世界大戦中にナチスがユダヤ人から奪った絵画の返還運動が盛んになって、そういった新聞記事が目につきました。それで、美術に関係したジャーナリスティックな題材ということで、絵画盗難に関する本を書いたらどうかなと思ったわけです。で、できるだけ資料を読んで、アウトラインを書きました。次のステップは出版社探しですが、出版社を探すといっても、結局は編集者との個人的な関係がベースになる。これは雑誌も同じですが、編集者がその題材を面白いと思ってくれることが大事なんです。題材に興味があれば、編集もスムースに行くし、同時に社内でもがんばって企画を通してくれる。そこで、私の題材に興味を持ってくれる編集者を探したわけです。すでに本を出した友達に電話をしたり、問い合わせたりして、こういう内容なんだけど、あなたの担当編集者だったら興味があると思う? 誰かこういう話に興味をもちそうな編集者知りませんか?と聞いて回りました。最初の本は、新潮社か文春(文藝春秋社)から出すのがいい、というアドバイスももらいました(笑)」
編集部(原田)「そうですね。やっぱり実際に出せるかどうかっていうのがすごく重要ですよね。」
朽木「それで、紹介して頂いた新潮社の編集者に会いに行って、アウトライン原稿を見せたんです。その人はすぐに、面白そうですね、と言ってくださったのですが、同時に題材はいいけれども、このアウトラインだと、絵画の盗難史や代表的な盗難事件が中心で、総花的で教科書みたいだ、と指摘されました。ノンフィクションというのは、もっとひとつのことに絞り込んで書いたほうが面白いものになるので、アウトラインを考え直してくださいと言われました。その時点で、私はすでに資料をかなり読んでいて、一番面白かったのがフェルメールの盗難事件だったので、その場ですぐに『じゃあ、フェルメールの盗難事件だけに絞った本にするのはどうでしょう』と提案したんです。すると『それ、すごくいいですよ! タイトルにも、フェルメールの名前を入れましょう』と即座に決まりました。」
資料調査と取材姿勢について
遠藤(ICUの美術・文化財 専攻学生。学内メディア『Weekly Giants』記者でもある)
「美術品についての取材では、美術館で作品を鑑賞することに重点を置くのですか?」
朽木「それはその時によりますけれども、私の場合はまず参考文献や資料を徹底的に読む、というところから始めます。私の場合は、日本国内で出版された資料だけでなく、英語圏で出されている本や新聞記事を読むことができるので、かなり情報量が多くなります。それから、美術史の専門家ではないので、絵に関しては、学芸員や美術史家に取材をします。美術史家は、自分のそれまで蓄えてきた知識で、カタログや本を書くわけですが、私はそもそもそういう知識がないので、本を読み、それに加えて専門家に質問して、答えを頂いて書いていきます。電子メールで質問、というのもします。」
遠藤「色々な取材をしていると、取材で得た証言が正しいかどうかの裏付けも行わなければならないと思うんですけれども、そのあたりはどういう風に気を付けていらっしゃるんですか? 私は先日失敗をしてしまったもので…(笑)」
朽木「そうですか。(笑)取材をして、自分がこれまで読んできたこととかなり矛盾している違うことを言われた場合には気を付けたほうがいいですね。その場合は、この人はこう言っています、一般論ではなくこの人の意見です、みたいな書き方にするでしょうね。あとは、同じようなことが書いてある本を沢山読んで、そういう意見があるかどうか裏を取る・・・。ひとりの意見だけでぱっと書いてしまうと、大抵間違ってしまいますから。」
編集部(原田)「フィクションだと、その人の想像で書くけれども、ノンフィクションっていうのは調査、調査、そして事実。すごく難しいと思います。」
朽木「タイプによるかもしれませんが、フィクションも取材の上に創造力を駆使して物語を展開しているのだと思います。ただ、ノンフィクションでも完全に事実だけかと言うと、そこには推測というものがあります。推測といっても当てずっぽうではなくて、やはりかなり取材をした結論としての推論ですね。そしてそれは、推測であるというか、自分の意見であるというのがわかるように書いているつもりです。」
その後の著作への展開
「『盗まれたフェルメール』はそのようにして企画はすんなり通ったものの、その後に取材、執筆で2年かかりました。そのあとで担当者に原稿を送ったのですが、忙しくてなかなか目を通してもらえず、ずっと音沙汰なし。しびれを切らして、ちょっとお尻をけ飛ばしに行かなきゃ(笑)と日本に行きました。こういうのも遠くに住んでいると、なかなか不便ですが。そのとき、東京で別の編集者と会ったら『来年(2000年)の3月にすごく大きいフェルメールの展覧会がある』という話を聞かされ、展覧会のチラシをもらいました。その人は私がフェルメールの本を書いていることを知っていたので教えてくれたんです。『これだ!』と、私はそれを持って編集者に会いに行って、『展覧会のタイミングに合わせて、あの本を出しましょう!』って訴えたんです。それが11月末頃。それから猛烈なスピードで動き出し、大阪市立美術館での展覧会の2、3日ぐらい前に本が出ました。」
編集部(原田)「えーっ、それってすごくタイムリーでしたね!」
朽木「私の本にとっては大変な偶然でした。展覧会が始まったとたんに重刷がかかって、会期中に3刷か4刷までいきました。フェルメール作品が5点まとまってやって来たこの展覧会で、一挙に日本はフェルメール・ブームになったんですね。あの展覧会がなかったら、私の本はどうなっていたでしょうかね(笑)。『盗まれたフェルメール』は現在8刷です。あの本のおかげで、様々な編集者と会うことができたし、またフェルメール・ブームのおかげで、男性誌「UOMO」の創刊に合わせてフェルメール作品を全点見に行くという企画を集英社からもちかけられて、創刊号で書くことになり、それが『フェルメール全点踏破の旅』の単行本化に繋がりました。
日本で出版されたフェルメール関係本 (朽木さんの数々のフェルメール本からも2冊)
スケールの大きな『パルテノン・スキャンダル』や『ハウス・オブ・ヤマナカ』を生んだ視点と、『ハウス・オブ・ヤマナカ』誕生の舞台裏、ノンフィクション作品への取り組み方などについて伺いました。
美術作品の流転への関心
朽木「美術品や美術へのアプローチというのは色々あると思うんですね。もっとも一般的なのは、美術品がどうやってつくられるかですね。その芸術家がどんな人物で、彼が絵を描いた時代背景や動機はなんだったのか・・・というアプローチです。私の場合は、すでに出来上がった美術品がどういう経路を経て今私たちの目の前にあるか、美術品が移動することでどんな価値を作り出して行くのかに興味があるのです。例えばフェルメールの作品だったら、どういう形で注文されて、誰がどんな形で作品を受け継いで、今自分の目の前にあるのか、というのが主な関心事なんですね。ですから、収集家や美術商、美術館の成り立ちなど、美術が人の手から手へと渡っていく移動のシステムに興味があります。
昔から歴史とか政治に興味があって、大学院時代は国際政治でも外交史研究をやっていました。だから美術を対象に選んでも、そういうことに影響されていると思います。ヨーロッパの美術の移動の歴史は、戦争の勝ち負けに大いに関係があるんですよね。戦争が終わると勝ったほうが負けたほうから美術品をごそっと持ってきますから。」
編集部(松平)「アメリカは今まですごく経済的な力があったから、美術品も多く集まってきていましたね。美術は、経済や、政治とも密接に関係があり、故宮博物院(註2)の収蔵品などをみても、戦争があるとそれは壊されてしまうので、キュレーターが避難させたという側面があって…。そういう研究をされるとなるとアメリカのほうがいいのですか?」
朽木「アメリカに移った理由は夫の転勤です。夫はアメリカ人ですが、本社に戻ることになって。」
編集部(村田)「留学先のコロンビア大学で知り合われたそうですね。お会いしてみたいなあ。
ところで『パルテノン・スキャンダル』には驚きました。ギリシャのパルテノン神殿の彫刻を、当時のイギリスの駐オスマントルコ大使が、なんと祖国の美術水準を高めるためという使命感からイギリスにもってきてしまうという…」
朽木「いまだったら文化財の不法持ち出しということになるわけですが、当時はそんなことがたくさんあったんですね。あの本は、結構取材に手間がかかって、アテネに行ってちゃんとインタビューもしたんですけどね。書評では評価してもらったけど、売れなかったんです」
『ハウス・オブ・ヤマナカ』―「山中商会」を再発見
朽木「本を書くのには時間がかかるし、取材費もかかるので、大抵は雑誌の仕事などと並行して進行しています。ですから、フェルメールの雑誌原稿や本を書きながらも、山中商会に関連した資料はずっと読んでいました。山中商会のことが書かれた新聞記事を読んで、興味を持ったのは2000年でしたから。」
編集部(村田)「新聞記事がきっかけだったんですか!」
朽木「それは山中商会のことを書いた記事というよりも、ボストン美術館にある一枚の絵の話だったんですけれども、それを売ったのが「ニューヨークの有名な日本美術商、山中商会だった」って書いてあって、ニューヨークの有名な美術商なのに何で私が知らないのかな、ニューヨークのどこにあったのかな、という疑問が出発点でした。ちょっと調べたら大変面白そうだったのです。たまたま、ロンドンに住んでいる非常に仲のいい友達に会ってその話をしたら、関西出身の彼女が「あ、私の友達のお母さんは山中家の人よ」と言うんですよ。」
(一同)「えーっ!」
朽木「それでその山中家のお嬢さんに紹介してもらい、彼女に連絡してもらって、山中商会経営者の直系にあたる山中さんに会いに行きました。それが2002年ぐらいだったと思うんですけれども、当時は大阪の阪急百貨店に山中のお店があったんです。で、その時にお話を聞いたら「山中商会がアメリカに接収された時の書類が、アメリカの国立公文書館に残っているようです」というわけです。それからメリーランドの国立公文書館に行ってみたんですが、少しだけ読んではみたものの、どう手をつけていいかわからず、ともかく量も多かったので、その時はあることを確認しただけで終わりでした。
その後、大阪の山中商会にも資料があるということで、また連絡を取ったときにはもう阪急百貨店の店はなっていましたね。そのときには、新潮社の担当編集者に頼んで連絡してもらい、「資料をいつでもお見せする」ということになり、読ませてもらいました。それ以降日本に行くといつでも鍵をいただいて、フリーパスという感じでした。他の資料も読んでいくうちに、だんだん色んなことがわかってきて、再度メリーランドの国立公文書館に通って、そこにある資料も読みこなせるようになったんです。」
編集部(村田)「資料はマイクロフィルムか何かですか?」
朽木「いえ、紙です。1941年、日米が開戦すると、山中商会のニューヨークとボストンとシカゴの店は敵国資産としてすべて没収され、店で売っていた美術品も全点売り払われるわけです。そのときに店にあった書類全部がまとめて国立公文書館に入っているわけです。全部で87箱ありました。ビジネスレターや伝票などが中心ですね。英語の書類は、アーキビストが相手先別に整理しているんですが、日本語の手紙や書類は整理されずに、ひもでぐるぐる巻にされた姿で無造作に箱に入っている。それをほどいて、丸まった紙をのばしながら読むわけです。
昔、ビジネスレターは、今のコピーの代わりにカーボンコピーをとって、控えを保管していたわけですね。書類を書くときカーボン紙をはさんで、かならず控えを取った。紙が劣化しているから、端がばらばらと崩れそうになるのですが、それを延ばして、必要なものはコピーに取るというという作業を延々と続けました。メリーランドの国立公文書館は、ワシントンの国立公文書館からシャトルバスが出ているのが便利でした。片道45分くらい。メリーランドでリサーチするときは、いつもICUの同期の友人のワシントンDC宅に泊めてもらって公文書館に通いました。一日リサーチすると猛烈に肩が凝るんですが、夜帰ってきて彼女の家族と食事をする時間がとても有り難かったですね。公文書館で3日か4日資料を読む作業を、多分6,7回したと思います。費用は全部自前です。大学の先生だと申請すれば研究費が出るんでしょうけど、フリーランスにはそれがありませんから。」
編集部(原田) 「その資料がどういう風に役立つかということが最初はまだよくわからないんですね。」
朽木「ええ。でもまずは何が書いてあるのかを知り、何回も読み返したり、他の資料と合わせて読んでいくうちにだんだん色んなことがわかってきたという感じですね。」
編集部(原田)「根気のいる作業ですね。カーボンのコピーだと読みにくい部分もあったでしょうね。」
朽木「手紙は全部手書きだし、昔の人が書いた書体ですから、崩した字などわからないものが多かったですよ。どうしても読めないものは、コピーを送って父に読んでもらいました。同世代の人のものだから読めるんですね。」
編集部(原田)「本当に色んな方のご協力があったんですね。」
朽木「そうなんです。そうして内容がだんだんわかり、慣れてくると、これは必要ないというのがわかってくるんですが、私がどうしても必要だった資料は87箱のほぼ一番最後にあったんです。1944年、山中商会の3店に最後まで残っていた資産がすべてまとめて競売にかけられて売られるんですが、その時の落札額が全部でいくらだったのかという記録がどこにもなかった。そのため、いろいろな推測があって、大変オーバーな数字が一人歩きをしていたので、絶対に正確な額が知りたかったんです。競売会社はパーク・バーネットといって、Pはアルファベットでは結構終わりのほうなので、最後のほうにファイルされていたんですね。で、そのパーク・バーネットのファイルの中に、ずばり競売の落札額一覧表があったんです。『あ、これだ!これでもう明日はここに来なくていいんだ』とほっとしましたね。」
編集部(原田)「本になって反響はいかがでしたか?」
朽木「美術商の山中商会は、戦前は非常に有名で、日本美術史をやっている人なら日本人もアメリカ人も皆「ヤマナカ・アンド・カンパニー」の名前を必ず知っていたけれども、実際に事業がどうだったのかは、日本には資料がなかったのでわからなかったのです。なので、これでわかった、と日本美術史の先生にはお褒めの言葉を頂きました。また山中家の方々や、山中商会で働いていた方々のご家族からは『自分の父親が働いていた山中商会は、非常に立派な美術商だと聞いていたので、こうした形であらためてそれを書いて頂けて大変嬉しい』と言われました」
遠藤「すごいことですねえ。」
朽木「ただ、新潮社の営業部とはタイトルをめぐって最後に一悶着ありました。要するに、営業は本を売りたいのでセンセーショナルなタイトルを付けたかったのですね。それで、山中商会が日本美術を売りまくったという悪者扱いで売ろうということだったんです。それはまったく内容と違うので、私は抵抗して(笑)、いろいろあったのですが結局妥協の産物としていまのタイトルに落ち着きました。私としては、ハウス・オブ・ヤマナカがメインタイトルなのでそれを死守したいと思っていました。協力していただいた山中家のためにも、あんまりひどいタイトルは付けて欲しくなかったので。編集者は間にはさまれて大変だったと思います。」
遠藤「この(文庫本の)タイトルでも結構マイナスイメージを受け取るんですが」
朽木「そうですね。そういう趣旨で書いているのではないんですが、妥協しました。読んでもらえばマイナスイメージは払拭されます。たしかに日本の美術品を日本以外の美術館やコレクターに売った事は確かですが、そのおかげで世界中でいま、日本美術を理解してもらえているわけですから」
註1 失われた10年:いわゆる「バブル」好景気がはじけたあとの経済的に停滞した10年。経済成長率でみると、1980年代の平均4パーセントの経済成長率から1992年以降約1パーセントへと4分の1に激減―経済学者岩田規久男氏の指摘
註2 故宮博物院:台湾(中華民国)台北市にあり、その収蔵品はもともと、北京の紫禁城内の美術品など。故宮は古い宮殿という意味。日中戦争と国共内戦の間、収蔵品を移動させたため、清朝の宮殿内の文物が、現在中国国内と台湾に別れて保管、展示されている。
次回後編では、朽木さんのICU時代、その後の編集・翻訳等のお仕事についてのお話が語られます。5月頃(→6月)掲載の予定です。どうぞお楽しみに!!
(なお、1969年の朽木さん入学当時-大学紛争期-の頃の資料については、ICU図書館
大学歴史資料室でも未整理、非公開とのことです。当時の様子がよくわかる写真、印刷物を個人的に所有していらっしゃる方は、ぜひ本ウェブサイトの、コンタクト欄より編集部村田までお知らせお願いいたします)
11月の特集(特集第14回)
人と時代 湯浅八郎氏と創世期のICU
- 「幻なければ民滅ぶー湯浅八郎とICU-」展 と
茅野徹郎氏(1期)のお話 -
今回の特集は、現在ICU図書館の大学歴史資料室にて開催中の「幻なければ民滅ぶー湯浅八郎とICUー」展(ICU図書館歴史資料室と湯浅八郎記念館の共催)のご紹介と、ICU1期生のお話です。「アートなOB」としての初代学長湯浅八郎氏(以下は敬称略)のお仕事については、民芸(民藝。庶民の生活の中から生まれた、郷土的な工芸。大正末期、柳宗悦らの造語)を愛し、収集したことなどを、前々回の特集で触れました。
今回は、特に、戦前から「時代」の荒波と対峙した大学人としての湯浅八郎について、そして、いかにしてICUが生まれ、創立時のICUがどんなものであったか、そこでの湯浅八郎の姿、時代背景などを振り返っていきます。
本特集の説明は、上記展覧会の展示資料を基に、ICU図書館大学歴史資料室・久保誠さんのご説明、1期生の茅野徹郎さんのお話、その他の資料や、湯浅八郎自身の言葉などから構成しました。資料の写真は同展覧会場にて撮らせて頂いたものを使用しています(ICU設立募金ポスター以外)参考文献は、展覧会紹介部分で『湯浅八郎と二十世紀』(武田清子著、教文社、2005年)、『京都府の100年』(山川出版社、1993年)等、茅野さんのお話部分では該当箇所で出典を記しました。本特集の文責は「ICUのアートなOB紹介」編集部の村田です。取材にあたってお世話になったICU図書館の久保様、浅野様、1期生の茅野様に深く感謝申し上げます。
この展覧会の会場に入ってすぐ右手に見えるのが、国内でのICU設立募金者カードを入れた箪笥です。北米での募金では、募金者個人の名を記したものは、つなぎ合わされロール状の募金簿になりました。(上の写真中央) 下の写真は、当時日本国内の各地に貼られた、ICU設立のための募金呼びかけポスターです。
ICU図書館より特別に掲載許可を頂いた、ICU設立募金を呼びかけるポスター
まず、湯浅八郎の精神的なバックボーンを探る上で、その生育環境や家系を抜きにすることはできません。
湯浅八郎の環境と家系
1890年(明治23年)東京生まれですが、少年期・同志社中学卒業までは京都で過ごしています。父の生家は代々群馬県安中(新島襄の父も安中出身)にて味噌醤油醸造業を営んでおり、父湯浅治郎は群馬県議会議長、衆議院議員を務め廃娼運動などに尽力しました。母初子は熊本出身で、熊本洋学校を経て新島襄による同志社英学校(同志社大学の前身)に入学。初子の弟たち―徳富蘇峰(猪一郎)、蘆花(健次郎)―もその転校組で、いわゆる「熊本バンド」です。 (大河ドラマ「八重の桜」をご覧になっていた方はご存知でしょう) 両親がクリスチャンという家庭に育った八郎は、後年「私はいまだかつて意識して『私はクリスチャンである』と言ったことはありません。『私はクリスチャンでありたいと祈念している』ということは、どこでも誰にでも話しています。」と述べています。(湯浅八郎「世界平和とキリスト教」)
農場労働者から京都帝国大学教授まで
1908(明治42)年同志社中学校を卒業後八郎は単身アメリカへ渡り、カリフォルニアの農場で働きます。砂嵐や昆虫による被害なども体験した3年の農業体験ののち、カンザス農科大学に進学、卒業後、イリノイ大学大学院で博士号を取得しました。(専門は昆虫学)1922年シカゴで鵜飼清子(*)と結婚。 1924(大正13)年に京都帝国大学に新設された農学部の主任教授に就任します。1926(昭和元)年には東京帝国大学より理学博士号も受け、京都の開明的で自由な学風の中で、のちに霊長類研究で有名になる今西錦司らを教えるなど、教育にも力を注いでいきます。その京都での農学部教授時代、彼がそのリベラルな精神の真骨頂を示したとも言えるのが、戦前の言論弾圧事件の一つとして有名な、1933(昭和8)年の滝川事件(京大事件)の時でした。
*鵜飼清子:鵜飼猛(1866-1948 若くしてアメリカに渡り大学に進み、牧師となる。1895(明治28)年帰国し、いつくかの教会の牧師を務め、日本教会学校協会設立に尽力)の娘。鵜飼清子の祖母は女子教育家・女子学院初代院長の矢島楫子(かじこ)。清子の母は妙子で、鵜飼信成(のぶしげ)ー憲法、行政法の法学者、ICU第2代学長ーは清子のきょうだい
滝川事件、同志社大学総長就任
京都帝国大学滝川教授は前年の講演内容でも当局ににらまれていましたが、1933(昭和8)年、内乱罪や姦通罪の問題点を指摘した著書が発禁となり、斎藤内閣の鳩山一郎文部大臣から罷免が要求されます。法学部教授会はそれに抗議して全員辞表を提出します。その時農学部教授としてはただ一人、大学の評議員会で滝川教授罷免の処分に反対を表明したのが湯浅八郎で、その反骨の気概が広く知られるきっかけとなりました。結果的には小西総長辞職後の松井新総長によって、滝川教授を含む一部の教授が罷免となりました。1935(昭和10)年、湯浅八郎は第10代同志社大学総長に推され、言論弾圧が強まる当時の時勢の中で総長就任を引き受けるべきか1か月悩み、4月末受諾することになります。
軍部等との対立、日米開戦
やがて大学に配属されていた将校(国際的には1920年代を通し軍縮が進んでいた余波が配属将校制度でもあったのですが)と対立し、その後も同志社の学風や言論の弾圧には抵抗を続けたものの、ついに辞職に追い込まれることになります。衝突の始まりは1935(昭和10)年6月に同志社商業高等学校道場に掲げられていた新島襄の肖像が剣道部の一部学生によって神棚に代えられたことでした。元の状態への回復を命じた大学に、師団司令部が配属将校引上げによる同志社大生の徴兵猶予の破棄を示唆して圧力をかけたため、湯浅総長は、新島襄の肖像を下ろさざるを得ませんでした。学内外での軋轢が続きます。(幼少の長女洸子を病気で亡くされたのもこの時期)
1937(昭和12)年には、当時の国体思想を露わにした論文が学内誌で掲載拒否された問題で、湯浅総長はその編集方針を擁護し、逆に一部教授陣をマルキシスト(マルクス主義者)として攻撃した論文執筆者と彼を支援していた教授に退職を命じました。しかし湯浅総長はその後、学内で配属将校の指導する国防研究会の学生により「祈祷や賛美歌の廃止」などが主張された事件の処理では、一部の右派、左派の教授双方を退職させ自身も辞職するという結果になったのです。その後彼は1938(昭和13)年の国際宣教者会議に出席、その翌年にアメリカへ渡り、各地の教会などで講演をしていますが、1941(昭和16)年12月7日(日本では12月8日)メイン州での礼拝中に日米の開戦を知ります。
アメリカ残留中の活動と戦後の活躍の場
日米開戦によって、その滞在地域にも寄りますが、多くの日系人は日系人収容所に収容されました。(主に西海岸や西部地域)また留学中や旅行滞在中だった日本人の中には、日米の交換船によって日本に送り返される人々もいました。戦後に共にICUを支えた近代日本思想史が専門の長清子教授や、ICUの初代図書館長の松浦たね、学者で大衆運動家でもあった、60年安保時の「声なき声の会」や60年代末の「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)を設立した立役者の鶴見俊輔、などもその時の帰国船で帰国した人々でした。彼らとは逆に、アメリカに留まる選択をした湯浅八郎は、戦時中は、アメリカで拘留されている日本人、日系人を慰問し励ます活動をしています。終戦後に帰国し、1947(昭和22)年には、再び同志社大学の総長(第12代)として招請されました。また、その後、戦前からのキリスト教関係者の悲願だった新たなキリスト教系総合大学設立の準備会(1949年6月御殿場東山荘で行われた通称御殿場会議)でICUの初代学長に抜擢されます。深く刻まれたキリスト教精神、戦前からのリベラルな経歴に加え、同志社大学の再建手腕も買われたのでしょう。
ICU設立募金の力
(右の写真は1949年購入時のICU用地。中央やや上、現本館の下に見える飛行機格納庫)
1950年7月に国内募金の目標額1億5000万円を達成とあります。(大学HPより)現在に置き換えるとどのくらいの額なのでしょう。その年と去年2013年の消費者物価指数は出ていたので2013年の消費者物価指数(東京都区部)を比較すると、昨年の物価は当時の約7.89倍になってます。そこで1億5000万円を7.89倍して、今の約11億8000万円に当たるということになります。
当時の国の公共事業予算が約1億300万円で2014年は約59憶7000万円(以上財務省HPの統計表より)ということを考えても、国内だけでも当時1億5000万円のものお金が集まったということは驚くべきことかもしれません。初期の運営資金の60%は、1949年ニューヨークに設立されたJapan ICU
Foundation(日本国際基督教大学財団)が拠出していたそうです。(同財団HPより)このように北米のキリスト教関係の方々からの資金は莫大ですが、国内での設立に対する期待、募金額も、いかに大きかったかということがわかります。自身はクリスチャンではなかった一万田日本銀行総裁(1946~1954)が全国日銀支店に働きかけ、多額の募金達成に大きな貢献をしました。
ここには掲載しませんがこの企画展会場で直接見て頂きたい写真は、少年時、青年時の湯浅八郎が家族と写った写真等、色々あります。1951年3月、現ICUの本館前の湯浅学長、建築家のヴォ―リーズたち視察団一行の写真もそのひとつです。小型のボンネットバスのような車を降りた一行が図面を広げてそれを見ています。当時日本はまだアメリカの占領下にあったため、軍需企業の旧中島飛行機研究所だったこの建物は接収されフェンスで囲まれていて、割れた窓ガラスからも荒れた状態が見て取れます。
「幻」に込めた想い
湯浅八郎の言葉の中で有名なものは次の言葉で、「私の生活信条」としてそれが書かれた自筆のメモが、今回の図書館での展示に出品されています。
生きることは愛すること 愛することは理解すること
理解することは赦すこと 赦すことは赦されること
赦されることは救われること
また、この言葉は、ICU同窓会が感謝を込めて湯浅八郎先生の文章を編み、湯浅氏に贈った「若者に幻を」(1980年刊)というエッセイ集にも載っています。
聖書には「若者は幻を見、老人は夢を見る」という言葉もあり、この幻は、イリュージョンの意味ではなく、VISIONとのこと。(英ジェームズ1世の欽定訳聖書からの言葉)今回の展覧会のタイトルである、「幻なければ民滅ぶ」のチラシ/ポスターのタイトルには英文もついており、Where there is no vision, the people perish.
となっています。「幻なければ民滅ぶ」の言葉は、旧約聖書の箴言29章18節にあるそうです。
「隅の親石」
「幻なければ民滅ぶー湯浅八郎とICU-」展のご紹介を締めくくるにあたって、ご紹介したい話があります。
湯浅八郎とICUについて色々なご説明をしてくださった大学歴史資料室の久保さんによれば、上の写真(左はその拡大版)に撮られた場面の意味は次のようにみることもできるそうです。
チャペルを起工するにあたっての鍬入れのような儀式をしている場面の写真、写っているのは、湯浅八郎とヴォ―リーズの二人ですが、右側のヴォ―リーズ氏は、手に持った鍬(?)をなぜか石に当てています。
久保さんが注目したのは、旧約聖書の詩篇(118・22-23)「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業。私たちの目には驚くべきこと」という言葉との関連です。
新約聖書にも次のような記述があるそうです。
イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(ルカによる福音書20章17節ー18節)
これらの言葉をかみしめると、チャペル起工にあたって、湯浅八郎、ヴォ―リーズの二人が「隅の親石」を意識したようなこのポーズに、創立当時のICUへ込めた想いが感じられるように思います。
ICUに育てられ、今ICUを育てる
ー1期生茅野徹郎氏のお話から―
本稿は、「ICUのアートなOB紹介」メンバー2名(25期‐ID81 原田、24期‐ID80 村田)が茅野徹郎さんから伺った話と、氏が寄稿、著述した資料からの抜粋、それら及び関連資料を参考とした背景説明などから成っています。氏の文章の載った参考資料は「THE PIONEERS」(ICU語学研修所50周年記念誌、2002年刊)、1期生による「半世紀遅れのYearbook」(2004年刊)、「ICU献学の理念とそのたどった道ー第1期卒業生としてー茅野徹郎」(東京YMCA午餐会双書No.15、2009年刊)です。(「半世紀遅れのYearbook」からは、横堀洋一さんの証言も引用いたしました。また「卒業生のICU40年」という同窓会編纂の記念誌から、茅野さんのことを書かれていた中条鈴枝さんの文章の一部も引用させて頂きました)
創立時のICUと学生
茅野さんは厳密にはICU創立の1年前1952年から開始した語学研修所(LI)からの入学で、LIからの入学者は通称0期生とも呼ばれています。ICU語学研修所は75人でスタートし、翌年のICU開校時には彼らを含む198名(うち女子学生55名)がICU生となりました。入学式が行われたこの年4月は、戦後日本の被占領時代を正式に終わらせたサンフランシスコ講和条約(平和条約)発効の月です。当時、ICUは「占領政策の落とし子」として一部マスコミに取り上げられました。占領政策を追い風とはしたかもしれませんが、明治期からの日本のキリスト教関係者の悲願であった、宗派の違いを超えたキリスト教系大学が実現したという背景を忘れてはならないと茅野さんはおっしゃっていました。
(下は、ICU図書館上記展の展示資料からの写真で、1953年本館4階ラウンジでの入学式)
様々なICU入学者達
茅野さんによれば、山梨県出身の茅野さんを含めて、学生の半分以上は地方出身者で、学生全体の中でのクリスチャンは2割ほどであったそうです。「THE
PIONEERS」や「半年遅れのYearbook」などを読むと学生は実に様々でした。新しくできるというICUについて、高校生として興味を持ち、湯浅学長に手紙を出して面会を果たし、受験を決めた者-彼は構内を歩く湯浅学長が何気なく落ちていたゴミを拾ってポケットに入れたのを見て感激したと書いています。茅野さんのようにすでに他大学の学生になっていたが、ICUの掲げる理想に惹かれ入ってきた者、また茅野さんがクニハウスと呼ばれた学内の寮で共に過ごした陸軍幼年学校(戦時中には軍人をめざす多くの旧制中学からの転入者―現在は80代半ば位の世代かーを抱えた)出身者もいました。
入学の頃の茅野さん
茅野さん自身がICU語学研修所(LI)に入所した時のことを綴った文章から引用します。
「LIを選んだのは勿論ICUに入りたいためであった。しかしLIに入学した時、私は地方国立大学ですでに二年間過ごしていた。この地方大学において、私は学ぶことの意味も判らず又自分の将来のキャリアについて明確な志望を持っていなかった。教師、友人とも深い交流はなく、又自分の成長に資するような刺激を受ける機会もなかった。お座なりに教室に出て卒業できる程度の成績で単位を取っていたに過ぎない。そのように悶々としていた頃、多分教会の中であったろうか、ICU設立募金のパンフレットを目にして、これこそ私が行く大学であると強烈な思いを持ったのであった。天啓を感じたのかもしれない。」入学を数日後に控えた日の朝、茅野さんは朝日を受ける本館に向かって祈った時のことを回想されています。「この未完成の教育機関に入学を許可され、私は大きな期待と不安のミックスした気分であったが、いざこの場に来てみるとやはり不安のほうが増してきた。従って合格の感謝よりむしろ私自身の将来への願いが、祈りの中心になってしまった」(「私の原点」-「THE PIONEERS」より)
学内アルバイトと奨学金
茅野さんは学費のねん出のため、ICU内の牧場(初期のICUでは、畜産学科を設けようという構想もあり、牧場を持っていました。その後ゴルフ場となったあと、都に売却され、野川公園となった部分です)の牛乳配達や、キャンパス内に住む教授のアメリカ車の洗車もしたことを書かれています。その洗車の時、茅野さんは「車を磨きながら『何時の日かこのような車に乗ることができるだろうか』との思いにとらわれた」そうです。(上記の「THE PIONEERS」より) 茅野さんが卒業後にホンダ技研工業に入社し、やがてホンダノースアメリカの会長になるということなど、当時ご本人さえ思ってもみなかったでしょう。氏が長くおこなったアルバイトは学内の電話交換手でしたが、仕事の終わるのが夜中の12時というのは学生としては相当きつかったことと思います。記念誌に寄せた文章には、先生がたや学生仲間、寮母の竹内さん、への感謝がつづられています。湯浅学長みずからが、茅野さんがアルバイトに追われているのを心配し、奨学金の話を持ってきてくださったと、取材に伺った時に私たちは教えて頂きました。現在からみれば、信じられないほど家族的な学長と学生の関係です。
(下はICU図書館上記展展示資料からの写真です)
1952.9.23 フレンドシップ号が横浜港に荷揚げしたジャージー牛と対面する湯浅八郎氏
当時の学生達の活動
当時の時代状況とICU学生の活動について伺ってみました。ICUという世界がそれだけで一体化し自足している別天地というわけではなかったようです。日本では、脱したばかりの被占領期間中からの、「容共」から「反共」の政策への変化(それは東西冷戦の進行に対応するもので、民主化の後退として「逆コース」とも呼ばれることもあった政策の変化とも関連しています)があったという時代でした。茅野さんによれば、学生の間には当時主として二つの潮流があったそうです。
一方は神田盾夫先生や秋田稔先生等のもと、聖書からこの世界と人間について考える聖書研究会の学生達。またもう一方には、学外の社会問題に目を向ける「リベルテ」というサークルメンバーのような、急進的と見られる学生達。やはり1期のジャーナリストで現在大学教授の横堀洋一さんが「ICU『開拓期』の回想―リベルテ、学生会など」に描かれているものを以下括弧内に引用します。冷戦が深刻化していく世界情勢を受け、「米国だけでなく新中国やAA(アジア・アフリカ)諸国、ソ連、東欧のことも学びたい、と仲間を集い、結成したのが通称「リベルテ」と名づけられた社会科学研究会であった。」(最初に顧問に頼んだ先生が辞退されたそうで)「結局トロイヤー副学長の仲介で長清子先生が『危険分子』の面倒をみることになった。との経緯を後日聞かされた」(「半世紀遅れのYearbook」より)
前者はICUのC志向、後者はI志向と言えるのかもしれません。茅野さんは、1期の中条(白鳥)鈴枝さんの書かれた文章によればクニハウスでの聖書輪読や祈祷会の初期メンバーで、やがてその祈祷会は職員や非クリスチャンにも開かれたものとなり、始業前の7時30分から、「本館屋上で、輪になり、共に声をあげて大学共同体の前途を祈った」そうです。初期ICUへのそうした想いは、当時のICUの人々、そしてその後の茅野さんを突き動かしたのかもしれません。(最初に茅野さんの目に触れたポスターのICU設立募金は、日本での募金の成功に押されるような形で、あとから北米での募金が進んだということをICUの理事もされ財務に詳しい茅野さんに伺いました。これは私たちには意外でした。敗戦から間もない―戦争が終わった時、茅野さんは15歳前後だったでしょう―日本人の願いの強さでしょうか。)
ICU改革へOB理事として関与
この項は、インタビューで伺った話ではなく、その時に頂いた、茅野さんのお話が1冊の冊子となった資料(『ICU献学の理念とそのたどった道―第1期卒業生として―茅野徹郎』東京YMCA午餐双書No.15)からICU改革へのご関与について概略をまとめました。
茅野さんが1957年にICU卒業後(実は商社勤務を3年経たのちとのこと)、ホンダ技研工業に入社したことはすでに触れましたが、1958年には大学法人評議員に同窓生として初めて選ばれました(1961年まで)。(『卒業生のICU40年』年表より)
その後、海外での長い勤務を経て、1992年にICUの理事として大学に戻って来られ、財政改善検討委員会で、財政改革に尽力されます。そこでは、大学特有の支払い慣習や無駄などを企業の合理主義の観点から見直し、当時バブル期でゴルフ場を都に売却した資金が多くあり、経済原則を超えたような支出がかなり収入を超えていた経常収支を2000年(実際には2002年達成となったそうですが)に健全化することを目標にしたそうです。1994年には、理事会で、専任教員(および理事)がクリスチャンに限られるという、いわゆるクリスチャンコード(以前は職員にもあったとのこと)が再確認されました。これは1年をかけて、大学論、神学論、法律論的に議論する委員会を設置し報告書を作成し、その報告書は他のキリスト教系大学にも配ったそうですが、追加注文が多く入ったことから、この問題はそれらの大学でも大きな関心事となっているということがうかがわれたそうです。また、新たな寮を建設していく方針は、現在プライバシーの観点から敬遠されがちな寮生活を、在学中に寮生活体験した茅野さんは、個人と個人の全人的な触れ合いを育むものとして推進を表明されたようです。
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最後に、そのインタビュー時に伺った、お嬢様のお仕事とお仕事を離れてのアート分野でのご活躍について、簡単ながら以下に紹介をさせて頂きます。
茅野さんのお嬢さんのみつるさんは、茅野さんがアメリカでの製造物責任訴訟で苦労する姿を見て、「日本企業を守る仕事に就きたい」と志し、コーネル大学法科大学院を出て米弁護士資格を取得されました。その後伊藤忠商事の社内弁護士となり、昨年、最年少の執行役員(!)となったばかりだそうです。そのお仕事に加え、学生時代の夢であったプロの声楽家のように定期的にコンサートを開くという多才なご活躍ぶりです。(毎日新聞 2013.5.16のWEB記事を基にしました)
ご本人がICU出身ではなく、直接「ICUのアートなOB紹介」というわけではありませんが、ICU出身者のご家族の活動も、ぜひここでご紹介したく思いました。12月6日にサントリーホールでチャリティコンサートを開かれるということなので、よろしければ、この「ICUのアートなOB紹介」をご覧の方々もいらっしゃいませんか?
茅野徹郎さんのお嬢様みつるさんによるチャリティコンサートポスターから
8月の特集(特集第13回)
人 (38期 ID94)千田哲史さん
-遺伝子研究から木工の道へ-
遺伝子の基礎研究と木工には大きな隔たりがあるように思えます。けれども、千田さんの場合、どちらの進路を進むにも、ICUという場が(直接的にであれ、間接的にであれ)その機会を提供した、と言えるように思いました。
大学とは、そのような跳躍的な進路転換は難しい場で、それに対応したカリキュラムを備えることはさらに不可能でしょうが、創立時からICUが指向してきたリベラルアーツの精神は、思考の柔軟性を、専門性と共に持つということではないかと思います。
いったいどんな経緯で、千田さんは、遺伝子研究から木工への転換をしたのでしょう。
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神奈川県横須賀市で、秋谷海岸にも近いところに、千田さんの「木工房くこ」はあります。工房名に取られた「くこ」は工房の隙間のあちこちから生え出ています。その力強さにあやかるという願いが込められている、と千田さんやその作品を紹介する通販サイトにありました。(http://shop.saturday-store.com/?mode=f7)
地元の人のために、「積木」のような木片、おがくずなどが入った箱が工房の入り口に置かれています。筆者たち2名が訪れた時には、千田さんは近所のおばさんと談笑中でした。筆者は取材、筆者の大学時代からの美術部の先輩は今回ICUで伐採された桜の木の再利用についての千田さんとの相談もあっての訪問です
通常、作品は出来上がると納品されるため、工房内で見られる完成品は限られています。丸いシルエットが印象的な障子風の引戸や大小の椅子などがあります。例えば小さい方の椅子は(逆さにしてみせてくださったのですが)、子供の成長に合わせて使えます。また、今度のICU祭で同窓会グッズとして販売される写真立ての他、通販サイトでも紹介されていた、テープカッターやペンケースの実物がありました。
中でも、ぬくもりを感じさせるペンケースの蓋は磁石での開閉の具合も絶妙。どれも千田さんならではの思い入れと工夫がみられます。
木工の工房らしい、昇降盤や角ノミ盤などの機械や道具類の間には、ここが地元の粉ひき場であった時の石臼や、お嬢さん(9歳と7歳とのこと)の木工作品があるのも、微笑ましく思われます。
大学で打楽器に出会いCMS(Chamber Music Society)で活動したり、ユニークな体育の授業の中で触れた和太鼓演奏にも熱中しました。演奏用の台はその多くを自らが中心となって作り、作曲した「青猪」「風祭」などの曲が現在も学生たちに受け継がれています。
その一方で、放射線が遺伝子に及ぼす影響などを実験、研究したという千田さん。大学院へも進み、研究者の道も考えたそうですが、実験室にずっと籠っては、また生活の場に戻る、という切り替えが中々うまくできなかったそうです。
千田さんが見せてくださった写真群の中には、この素朴な工房の中から生まれた、とても手の込んだ家具、特にシステムキッチンを木で作ったものなどでは、100万円もするというものまでありました。大きなテレビが置ける「違い棚」風のラックや、様々な遊び心を刺激するドレッサー兼デスクなども。あるいは、逆に実にシンプルなテレビ台(厚い板接合部の継ぎ目を見てもその頑丈さがうかがわれます)。
小さい頃から、ラジオまで作るほど工作が好きな少年ではありましたが、千田さんとて、いきなりこのようなものを作れるようになったわけではありません。家具製作への第一歩は、鎌島先生(物理)のところに送られていた案内状のDM。すでに木工を仕事として鎌倉に工房を構える20期(ID76)の佐俣さんという理学科の先輩からのものでした。佐俣氏の展示会を1996年に見に行って、何ヵ月も思い悩んだ揚げ句、その道に進もうと決意されたようです。当時、修士論文をまとめるために苦労する日々の中、「自分はこの先もこの世界でやっていけるのだろうか?」と自問自答していました。
自然と人間のあるべき関係に思いを馳せたICUでの日々・和太鼓で感じた自己表現の喜び・偶然目にした木工作品の素晴らしさ…それら一つ一つの要素が次のステップへ進む原動力となりました。
すでにそのICUの先輩はスタッフを2,3名抱えていたため、その時の弟子入りは叶わず、紹介された木工所などで経験を積みます。やっと佐俣さんの工房で2002年から6年ほど、週2,3回の木工のアルバイトをするようになります。2009年、ついに今の場所に工房を持つことになりました。最初は設計事務所の下請けで家具製作を行い、やがて様々な手段や機会によって顧客層を広げることになったそうです。
この横須賀市秋谷という地区に住むもともとの地元民の他に、都会から移り住んできた様々な人間の中には、仏像彫刻をする人(仏師)やデザイナ-・建築家・彫刻家・庭師・こだわりの大工・カバン職人・料理人・写真家・ラジオDJなども含まれていて、違った視点を持つそうした人たちとのやり取りは大きな刺激となったそうです。家具の修理を引き受け、その家具に使われていた技術を知ることによっても、技能を高められたようです。また、地域での交流から、地元の産品の通販サイトに登録するなどして少しずつ注文が増えていきました。
千田さんが現在感じている課題のひとつは、どこまで顧客の好みに合わせるか、どこまで自分の創造性を発揮させるかというバランスの取り方だそうです。木工作家という呼称は、千田さんには違和感があるようで、木工あつらえ職人というほうがふさわしいと、インタビュー前のメールでのやり取りで伺っていたのですが、そうした思いは、千田さんの作られた様々な作品(写真に記録されたものを含む)を見、説明を伺っているうちに、こちらにも伝わってきました。
全てを自分の独創で行うのではなく、自分が関わるどの部分にこだわりを持って、自分なりの良さを活かしていくか、という課題は、私たち皆の人生に共通する課題ではないでしょうか?
なお、ICU出身で木工の世界に入られた方は、他にもいらっしゃいます。
千田さんの師に当たる、20期(ID76)の、木工に加え、カフェ、ハーブやアロマ部門も備えた、鎌倉の「どんぐり工房」の佐俣敏郎さん
(http://www.dongri-ko-bo.net/)
「どんぐり工房では注文の家具を作るだけでなく、木で作れるものはすべてつくるというのがコンセプトです。システムキッチンから新築の家までnatural tasteで作っています。」
船の中で絶対に水の入らない優美な「舟箪笥」の伝統工芸に惹かれ、新聞記者から木工の道に入った、岩手の「箪笥工房はこや」工房主、28期(ID86)の木戸良平さん
(http://www.facebook.com/pages/%E7%AE%AA%E7%AC%A5%E5%B7%A5%E6%88%BF%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%84/145422345546692 ーfacebookのページ)
「9月2日から8日まで、青森県八戸のさくら野百貨店で「いわて木のしごと展」にはこやの仕事が展示されます。」(6~8日だけご本人在廊)
そして家具製作の仕事歴16年、現在はインターネットによる通信添削とテレビ電話で指導するプロ家庭教師を本業とし、副業で、趣味のギター演奏に通じるクラシックギターの修理を行っている、沖縄在住の24期(ID80)の宮崎守朗さん
宮崎さんのブログはhttp://plaza.rakuten.co.jp/tutor49/
また、ツイッターのページはhttp://twisave.com/morimiya1
「人のためになるような仕事と、あまりお金にはならないけれど趣味を活かした仕事をして、もう16年就職しないで生きてきました。」
(今回本稿筆者-村田-は、セクションメイトで卒業後に家具製作の道に進んだ彼と、30数年ぶりにやり取りが叶いました。)
この他にも、また今後も、木によるものづくり、に関わる方は出てくることでしょう。
それぞれの方がそれぞれの道でよい仕事を続けていかれることを願っております。
6月の特集(特集第12回)
ミュージアム
湯浅八郎記念館-ICUで先人に想いを馳せる-
1982年にICU構内に開館したこのミュージアムを、その年以前の卒業生の多くはまだ訪れたことがないでしょう。
今回の特集では、湯浅八郎記念館の活動と、7月4日(金)まで開催中の「描かれた器」展について、学芸員の福野明子さんのご説明、ご案内を基に、時折取材者の感想も交えてご紹介いたします。
この湯浅八郎記念館はどなたでも無料で観覧できますが、ICUの施設であり、学生達に見てもらうことを大きな目的としています。常設の展示の他にも、学期ごとに年3回の企画展示と公開講座と貴重な寄贈資料の公開などもあり、現在7000点近い収蔵品が収蔵庫から、様々なテーマに沿って蔵出しされているそうです。
2階の企画展の展示室へ向かう階段の壁には、びっしりと過去の企画展のポスターが貼られています。開館以来毎学期違った企画展を開催してきたので、今回は98回目(!)に当たるとのこと。企画展は、ジャンルで毎回散らばりをもたせ、切り口を変えてテーマに多様性を持たせるよう、記念館スタッフで相談して決定するそうです。
湯浅氏は中学生の年齢でアメリカに渡って、カリフォルニアの農場で働いたりしながら、かの地の大学に進みました。後年こうした日本の民藝に惹かれたのは、自らのアイデンティティをあらためて探るような意味合いもあったのではないかという、福野さんの推測には説得力があります。(この湯浅氏の記録ノートの記述の面白さのご指摘にも。これは実際に見て実感して頂くのが一番)
氏は、民藝の美を世に知らしめた柳宗悦(1889-1961)の「見テシリソ 知リテ ナ見ソ」(実際に見て知りなさい。知識を得てから見ないで)という言葉のように、自らが見てよいと感じる品々を収集していったようです。例えばこの「三保の松原」文様の染付皿。富士山は上部端っこで窮屈にも見えながら、よく見ると下方の舟の帆や波、松?の位置と、実に絶妙なバランスを保っているように思えてきました。湯浅先生の富士山の図柄への好みは、富士山が描かれた皿が他にもあることからも知れるとのこと。
染付皿(左は黍ーきびーにウズラ、右は金魚の図柄)
どちらも素朴なタッチで描かれていて親しみを感じさせます。これが流麗な筆捌きで描かれていたら、ふだん使う食器としては、どこかよそよそしく感じてしまうかもしれません。
染付徳利(植物の図柄2種)
こちらの徳利は、筆遣いも非常に洗練されていて、左の徳利の絵など、少しシュール?な程。この1つ前でご紹介したお皿とは対照的です。(ちょっと日常から離れた気分でお酒を楽しむには、こうした描かれ方が合っているかも…)
盃台(奥と手前右)、盃洗(手前左の大きな器)
このような酒器は現在ほとんど使われていませんが、盃台はその上に盃を置いたもので、盃洗は中に水を張って盃を洗うものだそうです。お酒を差しつ差されつ、盃を洗ってやり取りしたようです。
白粉(おしろい)入れ(奥)
油壺(主に整髪用の油を入れた壺)(手前と右)
白粉入れは、白粉と水を別々に入れ、それらを水に溶き合わせるのに使ったそうです。3段重ねの容器は、白粉入れですが、漬物とか梅干しを入れていたのかと間違いそうな容器です。
「座敷で使う道具尽くし」の浮世絵
このような「道具尽くし」の絵は、今でいう「図鑑」のように、子供に物の用途を覚えさせる役割を果たしたそうです。例えば、先の3段重ねの容器が、整髪油を入れる「油壷」と並んで描かれていたら、これが白粉入れだとよくわかるでしょう。
行灯(あんどん)皿2種
実際にその奥に展示されている行灯の構造をみると、上部の紙の覆いをした部分(火袋)の中に灯明皿が置かれ、その下に行灯皿を設置して、滴る油を受けるようになっていたり、絵柄が描かれるには決してよい場所ではありません。そんなところにもこうした絵を描いたということ、福野さんのおっしゃるように、私たちの祖先の感受性を表すものかもしれません。
「幽致庵末久(ゆうちあんまっく)氏の作品のこと
この企画展には、ご令嬢であるICU1期生の川村早苗氏より寄贈頂いた幽致庵末久こと稲垣穣氏による陶芸作品も18点(図柄などの描かれたもの)、作品群から、展示されています。その中には、「ICU湯呑みーI see you. You know me.」 との言葉遊びが記されたものもありました。そうした言葉にも、氏が幼少時の呼び名ゆうちゃん、と米国留学中の渾名マック、を合わせて雅号にしたのと同じユーモアが感じられました。
(なお、この作品集の置かれた椅子、わかりにくい撮影で恐縮ですが、実は2000年頃までICU本館で使われていた椅子だそうです。誰でも座ってみられるように、さりげなく展示室内にいくつか配置されていました)
ICU構内での出土品常設展示コーナー
右上の石器の模様(描かれているような、彫られているような)は、「四つ足獣?」との説明あり。そう言われるとなるほど…
遺跡のコーナー
敷石住居址を復元した展示などがあります。右端に見える幅広い帯のような2つのものは地層の断面を採取した実物標本といったものなのです。
資料室
展示ケースにずらりとそば猪口が並べられています。この記念館の刊行物や資料なども置かれています。ここで考古学や民藝についてのゼミなども行われるそうです。
常設の民芸品の展示コーナー
湯浅八郎氏はそのどんなところを愛でたのでしょうか?
この記念館を訪れる方それぞれが、こうした民藝の品の中から、その人にとっての発見を持ち帰ることと思います。
下は、湯浅八郎氏の写った写真のパネル。 以上、ここで使用した写真は、全て湯浅八郎記念館の許可を得て撮影、使用させて頂き、説明は、福野様のお話、展示品紹介の資料、などを参考にいたしました。湯浅記念館の皆様のご厚意に深く感謝申し上げます。
4月の特集(特集第11回)
グループ ICU美術部-現美術部OB会の起源-
1976年美展、同美展の看板前で(本館前)、陶芸窯補修時(1980年頃?)
美術部の思い出 21期(ID77)岩田岳久
21期ID77卒業の岩田です。
現在ICU同窓会の美術部OB会支部長を務めているので、お呼びがかかりました。
これから私が在籍した1973年から1977年までの美術部の活動で印象に残っていることをお話しします。
まず美術部に入ることとなったきっかけは、同級生の細川君が美術部に入るというので一緒についていったことで、1年上の大旗さん(どなたか行方をご存知でしたらお知らせください)が一人で活動していて、これなら自由に部室も使えていいなと思ったためです。
それでも何か活動しようと思い、夏休みに軽井沢にある大学の施設「三美荘」で合宿をすることにしました。昼間は各自好きな場所で絵を描き、夜は各自の作品を順番にイーゼルに乗せての品評会です。 うーん、なんか本格的なクラブの合宿という感じですが、私の思い出は、100グラム100円以下の牛肉を買ってきてカレーにしたのですが噛みきれなかったことでしょうか。
そして、「美展」。旧D館の部屋を借りて、部員の作品展をやりました。その際、私が描いた絵は写真を模写した裸婦でした。(裸婦と言えば、バルセロナで勤務していた時、家の近くの絵画教室で本物の裸婦を描く機会に恵まれましたが、恥ずかしくて後姿しか描けませんでした) しかし人体を描くのは難しいですね。
それから陶芸の窯を大学の構内に造ったことでしょうか。同級生の市川君が中心となり、大学の許可を得て、石油バーナーを買い、耐火煉瓦を積んでグラウンド奥地に設置しました。作品を入れて、穴からコーンが倒れていないか覗きつつ、数人でお酒を飲みながら夜通し火の番をしたこともいい思い出です。
写真はいずれも1975年夏の合宿。場所は軽井沢のICU施設、三美荘
さて、現在はというと、2年前から谷下さんに誘われて、月2回の日曜日スケッチ教室に通っています。先に書いた、20年ほど前にバルセロナで買った、シュミンケの絵の具が役立っています。場所は横浜の関内駅近くですので、是非一緒に水彩をやりませんか?2ヶ月に1回は、屋外でスケッチもしますので、楽しいですよ!
2013年11月、横浜市関内のギャラリーにて
出品者の岩田さん(左)、藤江さん(右。旧姓「谷下」貴与子さん)と「ICUのアートなOB紹介」の村田(中)、いずれも元美術部員
1970年代前半頃の美術部に関する覚え書き
24期(ID80)村田広平
1973年入学の21期(ID77)の岩田岳久さん(2009年より美術部OB会会長)がICUに入学した1973年の前史として、1969年のことから記したいと思います。私自身は1976年入学の24期ですが、特に70年代前半のICUと美術部の歴史に興味を持ち、美術部OB会の電子掲示板の「温故知新」というコーナーに、美術部の古い話を載せてきました。もう38年も前になる私のICU入学の頃の話や、さらに古い、遺跡から発掘してきたような話題です。
ここでは主に、美術部員であった17期(ID73に当たる)山本雄一郎さん、21期(ID77)の細川進さんが書かれ、その後美術部OB会掲示板に掲載したもの、同じく21期の市川義生さん、23期(ID79)の三崎修さんによるお話、ICU同窓生名簿(ICU ALUMNI DIRECTORY 2006)などを参考にしています。資料の年表ー27期(ID83)の木内芳春さん作成ー画像は、美術部OB会による2010年ICU祭での企画展示の時のものです。
1960年代末期は、国際的にもベトナム戦争反対や大学の民主化、など様々な理由での学生反乱が注目されるようになっていました。国内でも、そうした理由の他、学生に対する統一的能力テスト導入への反対、学費値上げ反対などで、大学、さらには一部の高校まで、「学園紛争」が広がりました。
ICUで一部の学生がD館を占拠し立て籠った(教授会議事録の公開、その他いくつかの要求を掲げたようです)ことに対し、機動隊が導入され、学生を排除したのが1969年の10月20日でした。この年は、学生が占拠した東大の安田講堂でも、学生と機動隊との攻防が1月に大きく報道され、東大の入試が中止になっています。全国の多くの大学紛争はその後徐々に下火になっていきました。
ICUに機動隊が導入され、D館立て籠りの学生が排除されました。キャンパス主要部を工事用の塀で囲っての強行的な授業再開には、全学生の3分の2ほどが授業拒否をして、山本さんを含む1年生(当時の1学年は約250名とのこと)のうち約3分の1以上がそのために留年したそうです。
このことは、原則として中退者は載っていない(連絡をし会員となれば載るそうですが)同窓生名簿を見ると、よりはっきりとわかります。
17期(’69年時1年生)は名簿に160名で、1970年卒業の14期(’69年時4年生)の215名、次の15期(’69年時3年生)194名、16期(’69年時2年生)の258名と比べても、著しく卒業生が少なくなっています。最後まで授業拒否した学生は除籍となり、退学者も多く出たそうですが、約50~80名程度が卒業を待たずにキャンパスを離れたと思われる1969年入学の1年生が、もっとも影響を受けたのではないかと思われます。
※ 当初、この原稿中で卒業を待たずにキャンパスを離れたと思われる1969年入学の1年生の推定数を約90名と記載していましたが、50から80名程度としたのは、ICUパブリックリレーションズ・オフィスの新証言と以前に’69年入学者から得ていた証言からの再発見を受けたものです。一番最後に、長いですが、このことについての文章を追記しました。
美術部の部員自体がその当時少なかったこともあったのでしょう、「1969年からしばらくは美術部活動は実質的にありませんでした。」(前述の山本さん) この頃の美術部員のつながりは、その上の世代と断絶がありました。(その後2004年に「美術部」は公認サークルとしては存在がなくなっていたことが2008年に、大学への問い合わせにより判明しました)
旧D館3階の、本館と図書館側角の美術部室(現「アトリエ」)は、その間(1969年からしばらく)、山本さんを含む共闘会議理学科実行委員会(闘争委員会)のミーティング場所、たまり場、ともなっていたことを、山本さんは証言しています。
1973年に入学し、セクションメイトの細川さんと共に美術部に入部した岩田さん達が美術部の「変革」を進める様子を 、5年生となっていた山本さんは驚きを持って見ていたようです。
1974年秋のICU祭(当時はまだ全学的な行事とはなっていませんでした)では、美術部の積極的な参加を選び、展覧会実施の他、大学を風刺する漫画を描いた立て看板を設置して、その立て看が壊されもしたと、これは細川さんが語っています。
そして美術部の中で学生運動的な活動が行われた(全部員の意思ではなかったために、美術部書記局を名乗り)結果、部を離れていく部員がいたことも証言されています。
学費値上げが発表されたのが’75年の1月で、’77年からの実施でした。現役学生は影響を受けないにも拘らず反対運動を行いましたが、すでにそうした学生運動の退潮は明らかな時期でした。
岩田さん達は、様々な試みを模索する中で、益子焼で有名な益子(栃木県)へも行きました。’75年以降は陶芸活動に力を入れ、構内への陶芸窯の設置を、大学側に、21期の市川義生さんが中心となって交渉します。実績のない美術部に対し、承認や資金補助を与えられないという大学からの返答が返ってきました。
それに対して、’75年の秋には、縄文時代さながらのやり方で作った作品で実績を示します。グラウンド奥の一角で、新入生の23期三崎修さんも加わり、穴を掘った中に、粘土で形造ったものを入れ、一晩かけて焼き上げました。
そのようにして、グラウンドでの陶芸窯設置にこぎつけたのだそうです。
1975年春以降は、22期の西尾隆さん(前教養学部長)も合宿などのイベントに参加するようになっています。陶芸活動の始まり(前述の市川さんにより陶芸班というのができて、絵を描く部員たちは絵画班と呼ばれるようになっていったようです)に加えて、三崎さんは創作折り紙研究会を始めました。
21期の岩田さん達の美術部「改革」後は影が薄くなり、美術部活動には参加しなくなっていた20期(ID76)の大旗克朗さんは、’75年夏の合宿への参加を最後に、翌年の卒業、就職後は美術部OBとしても、一切登場しませんでした。武勇伝(本館正面の壁に大きな「亀裂」の落書きを描いた、等)の主人公(異論もあり)とされ、すでに伝説的存在となっていたのです。
’76年春に入学した私は、その大旗さんに、いつかお会いしたいと願いながら、ついにお会いする機会はありませんでした。
以下は「ICU史再考」サイト設置準備記録と、紛争期のある学生についての故リンディ先生による文章のご紹介です。
現在、ICUの学園紛争に関する資料と、他大学の学園紛争に関する大学史における記述などについては、主なものについて収集がかなり進みました。
紛争当時の在学生だった方々と紛争前後の在学生だった方々からの情報を頂きたいのが、1969年にほぼ半年の授業のない時期に自主講座を開催された先生方のこと、また紛争を機にICUを離れた先生方のことです。(大学にも問い合わてみようと思っていますが)
何人かの先生方のお名前を伺ってはいますが、できればそれらの先生方をすべてリストアップしたいと思います。そうなると、当時在籍していて、その後も残られた先生方は?ということになりますが、資料として失われる恐れのある、ICUを去られた先生のお名前を記録したく思っています。それらの先生に教わったICU出身者の方々には、ぜひお知らせ頂きたく、どうかご協力よろしくお願いいたします。 (2016年4月21日記)
「ICUの学園紛争」検証サイト設置準備のご報告に代えて
当初4月1日に設置予定とお知らせしていた、「ICUの学園紛争に関する検証サイトの設置が大幅に遅れていますことをお詫び申し上げます。その遅れの大きな理由は、個人的にも様々な用事が重なったこともありますが、もうひとつは、母校の大先輩の方々や、その卒業生として今ICUの運営に関わっていらっしゃる方々に、一人一人もっとご意見を伺っておきたいと考え始めたためでもあります。
すでに資料として非常に多くのものを、何人かのご協力により集めることができました。ただその公開には、執筆者個人に掲載の許可をお願いしてもご返事のないケース、さらに発行者に掲載許可を求めても、原著者やそのご遺族の了解を得るための困難が予想されるケースなどがあることがわかりました。当初私が、まずは資料を公開して、議論する土台のようなものを設け、そこから自由に議論をしてもらうような場の設置を考えていたのですが、そのようなことからまだそれは具体化していません。
今年(2016年)に63年を迎えるICUの歴史の中で、紛争の事実や、その時にいらした先生方のことさえ、現在徐々に忘れ去られつつあります。現在私も59歳です。私(24期)が1976年の入学後に英語の授業でお世話になり、さらに7期の先輩も教わったと伺い、1990年の3月のご退任時の1年生(37期ID93になるのでしょうか)もご存じの懐かしい先生のお言葉を今回全文引用させて頂こうと思い立ちました。
私もちょうど先生が描かれたようなある先輩に出会い、そのためにこのICUの大学紛争のことが頭の片隅から離れません。1959年から31年間ICUに在籍され、英語指導に31年ご尽力された、リチャード・リンディ先生による文章をご紹介することで、わずかながらでも、なぜ今になって大学紛争の話題を取り上げようとするのかにお応えしたいと思います。 この文章は国際基督教大学同窓会が1992年2月に大学創立40周年記念誌として発行した『卒業生のICU40年』に収めたもので、1990年3月の先生のご退任時に同窓会報に一部割愛で掲載されたものがこの記念誌には全文掲載されたそうです。
すでに1993年2月15日に先生は68歳(1925年生れ)でお亡くなりになられています。そこで、ご本人への転載許可が得られない代わり本来は、この文章の掲載者である同窓会事務局にお伺いし、ご遺族の意志を確認するという手続きが踏まれなければなりません。けれどもそのような、ルールを踏む手続きと時間、ご関係者のご苦労を考える時、その手順を踏み外しても、先生がICU卒業生に伝えようと書かれた文章を、今という時期にここでお伝えしようと思いました。ご関係者の方々にはその不作法を深くお詫び申し上げます。読者の皆様(特にICUのご関係者)には、リンディ先生が伝えようとしていることをこの文章からくみ取って頂ければありがたく存じます。
私事ですが、私が在学中、美術部仲間とアンデパンダン展と称した展覧会を開催し、在学生以外にも教職員の方々にも出展をお願いした時に、ご出展は実際はかないませんでしたが、craft workでも出展しようかね、と言ってくださったリンディ先生、その時の温かなご対応、そして入学初年度の英語のご指導、そしてご退任にあたり、次の文章をICU卒業生に向けて書いてくださったことに深く感謝しています。Thank you so much, LINDE-sensei, you showed us what we should not forget.
村田広平(24期)
Memories of My 31 Years at ICU
Richard LINDE
My wife, Janet, and I are leaving Japan after forty years in this country, thirty-one of them here at ICU. That’s ninety-four terms ago. Students who entered ICU when I did, or before, will remember Prof. Arthur MacKenzie,director of FEP for whom I had worked at Kwansei Gakuin from 1950 to 1954.
Other will remember such faculty members as Gerhard, Moor, Kleinjans, Ota(Fusae), Nakazawa, Shimizu(Mamoru), Sano(Masako). Maybe others can remember more names.
We lived first in East Grove, and within one week, we witnessed the first scoop of earth removed from the ground where in the following days and months the library was constructed. That first scoop of earth was dropped into a truck, carried a few meters and then dumped in front of the Main Building. That was the beginning of Bakayama and Ahoyama.
The main Building really was “main “; everything was in it: classrooms and faculty offices; on the west side of the second floor was the library, and on the east the administration offices. Under the library was the NS labs. The fourth floor held nothing but three ping-pong tables until a couple of years later a primitive language lab was installed.
ICU was a quiet place in those days, and Mt. Fuji was much more visible from the campus. These days we are wakened by bosozoku, sirens, ambulances, and other traffic; in 1959, cows woke us up standing where the 30- meter highway is now. Bus fare to Mitaka was ¥30, from Mitaka to Tokyo was ¥100. And I had black hair!
There are the memories that came to mind when I was asked to for The ICU Alumni . Subsequent memories were more significant:
The earlier years here were the most stimulating, made so, because President Yuasa gave a reality to the ideas of “The ICU Family,” “The Pioneer Spirit,” and “ The University of Tomorrow.” It was possible to observe how ICU’s policies affected students’ education at ICU as well as the effect of those policies in other schools. Examples of those policies are ICU’s aim toward bilingualism, biculturalism and its efforts on furthering internationalism.
I am not under any illusions about ICU’s success—or lack of it—in having reached any of its goals, but there was movement toward them then, and that movement is still evident.
During the student unrest in the 1960s, I had an experience which is an exemplification of ICU’s biculturalism. It is the only positive event I can cite related to the unrest.
Near the end of the barricade periods I met one of the leaders as I was walking on the back road. He looked sad. I knew his name and remembered that he did not like to study English. I used his name as I asked, in English, how he was feeling. I expected him to ignore me. He didn’t. He looked directly at me and in Japanese said the equivalent of “These days are awful. The situation is very bad. I hate what’s going on.” He turned and went on his way.
What amazed me was that though I knew I represented all that he had was opposed to, for that one moment he put ideologies aside and answered honestly, as one man to another. There were no barriers of mistrust, language, nationality, position, age or even eye-color.
Even now, I like to think that some of ICU’s ideals had affected that man; the incident could not have happened except at ICU. If I am right, and if others have been influenced as he had, then ICU has proved its worth. I know there are more shining examples: the numbers of ICU graduates who work in international institutions or who are active in service organizations all over the world. However, my experience in finding that kind of openness under such unlikely circumstances has meant more to me than the statistics I read.
Finally, I want to say that I could not have had a better life. I'll be taking back to the US all of what ICU means to me, and it will be a firm foundation underlying my life and work for the next thirty or forty years. For that I owe thanks to ICU'S vision, its faculty, staff, students and alumni.
2017年初、ICUの「紛争期」の歴史解明への新たな動きや新情報も伺っていますが、当時を知る方ともご相談の上、その紹介について検討したいと思います。ご意見や情報は右記メニューコンタクト欄連絡先(→2018年1月8日当サイトトップページとこのコーナーの最下段にもURLを記した新サイトを立ち上げましたので、この話題に関してはそこの連絡欄)へお願いします。
追記: 現在、ご連絡をくださった方を含めて、この問題について、および専用のサイトについて、協議中の段階です。(2017年4月26日 記)
報告:様々な紛争期のICUに関心を持つ人々と繋がりができつつあります。そうした方々、実際に当時その問題を体験した方々と対話を深めています。
サイトも最低限のものを試作。今後の公開も準備中です(’17年10月7日 記)
新サイトの立ち上げと公開に伴い、資料リスト等の具体的内容はここより削除しました。新サイトでも資料リスト公開は今まだ後の課題としますが、なぜ今この問題を、どのような方向性を持って探求するのかについて、以下の
サイト 「私たちのICU史再考-1966年~70年を中心として」
https://reconsidering-icu-history.jimdo.com/ をご覧ください。
(文責「ICU史再考プロジェクト」村田 2018年1月8日)